三十三
昔のこと。
男に、摂津の国は菟原(うばら)の郡に通っていた女がいて、その女が「彼が今、京に行ったら、ここには二度と戻ってこないだろう」と思っているような様子だったので、男はこう言った。
葦辺より(葦が生い茂っている岸の辺りから
満ちくる潮の(満ちてくる潮の
いやましに(水がいよいよますます増してくる
君に心を(そんな風にあなたに心がひきよせられて
思ひますかな(思う気持ちが増していくのですよ
これに女がこう返した。
こもり江に(人目につかないこもり江のように
思ふ心を(ひそかに思う私の心を
いかでかは(どうして
舟さすをの(あなたは、舟を動かす棹をさすように
さして知るべき(それと指して知ることができましょう
田舎人の歌としては、よしやあしや。
潮の満ち引きと心の動きを重ねた相聞。男の歌は「万葉集」に類歌があります。
「こもり江」はおそらく「伊勢」の段階でもまあまあ古代を感じさせる語彙です。「続古今和歌集」(1265 成立)に「こもりくの」(「初瀬」にかかる枕詞)と混同して枕詞的に誤用された歌(「こもり江の初瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしな」)が収められていることを考えると、中世にはすでに、古代のムードを醸す語彙だったでしょう。
この段は両句とも、上代の語彙、背景を用いていることと、おしまいの文句が「ゐなか人の事にては、よしやあしや」という問いかけで終わっていること(「善し悪し」と「葦-よし/あし」の掛詞になっていて、訳しづらいので上記のようにそのまま書きました)、これら二点からちょっと変わった雰囲気の段です。「よしやあしや」は最初の歌の「葦辺」を受けていて、歌物語として整ってる印象です。ある程度「伊勢」の全体像ができた後で差し挟まれた章段だろうという説もあります。
三十四
昔のこと。
男がつれない相手のところに、こう送った。
いへばえに(言おうとして言えず
いはねば胸に(言わなければ想いが胸で
さわがれて(さわぎだし
心ひとつに(私の心のなかだけで
歎くころかな(ただ歎くこのごろです
恥も捨て、思い切って言ったのだろう。
「いへばえに」は文節にわけると「いへば/えに」で、「言おうとしてみると/そうできなくて」の意味。「えに」は「……ば/えに」の形で「……してみると……できなくて」
という意味を表しますが、現代から見ると難解な語句です。動詞「う(得)」の未然形「え」に、上代の打ち消しの助動詞「ぬ」の連用形「に」がついたものか、と見られています。
最後の「恥も捨て、思い切って言ったのだろう」の原文は「おもなくていへるなるべし」です。「おもなし」は「面なし」で、大きく分けて「自分が人に合わせる顔がない」と「傍から見ていて恥ずかしいはずのことを恥じる様子がない」の用法があって、ここは「なるべし」と、伝聞の助動詞「なり」に推量の助動詞「べし」が続いているので、後者の意でよいと思います。「つれない女にこんな直截的な歌を、まあ、よく臆面もなく送ったものです」と言っている。直訳だと「臆面も無い状態で言ったのでしょう」「ずうずうしい態度で言ったのでしょう」と訳せ、現代語の感覚からすると「おもなし」は厳しい語です。
しかし、第一段の「むかし、男、初冠して……」で「昔人(むかしびと)はかくいちはやきみやびをなむしける(むかしの人は、このように直截に、洗練された恋のふるまいをしたのですね)」と言っていることからすると、「おもなし(臆面もなく、恥知らずなことに)」というのも「最近の人だったらあきらめてしまうような状況でも、恥ずかしいだのなんだの言わずに、昔の人はぐいぐい行ったんですよ」というような、積極的な評価のニュアンスがあるかもしれないなと思います。
三十五
昔のこと。
うまくいかなくて別れてしまった人のところに、男が
玉の緒を(玉の緒を
あわをによりて(沫緒に縒りあげて
結べれば(しっかり結んでいたのだから
絶えてのちも(つながりが絶えたあとも
あはむとぞ思ふ(きっと会えると思う
と送った。
これも「万葉集」に類歌があります。
玉を貫く糸を「あわをによりて」と言うのですが、この「あわを」に諸説あって難しかったのでそのままにしました。玉の緒、縒る、結ぶ、絶ゆという縁語の間にはさまるこの「あわを」の語に水の泡、逢うなどの意味が掛けられているという説があります。「沫緒」はたくさんの糸筋を編み合わせてつくった、弾力のある組紐のことかと見られています。
三十六
昔のこと。
「忘れてしまったようですね」と問いかけてきた女のところに、男が送った。
谷せばみ(谷がせまいので
峰まで延へる(頂上まで伸びている
玉かづら(すばらしい蔓のように
絶えむと人に(あなたとの仲が絶えようなどと
わが思はなくに(私は思いませんので
引き続き「万葉集」の類歌が続いています。「人に」は「人を」の異本もあるとか。
三十七
昔のこと。男は色好みであったという女に会っていた。女が浮気をしないかと不安だったのだろうか、男は
我ならで(私以外には
下紐とくな(下紐を解くな
あさがほの(たとえあなたが朝顔のように
夕影またぬ(朝咲いて夕方まで待っていてくれない
花にはありとも(花であるとしても
と言った。
これに女がこう返した。
二人して(二人で
むすびし紐を(結んだ紐を
ひとりして(ひとりでは
あひ見るまでは(再び会うまで
解かじとぞ思ふ(ほどいたりしません
「二人して」の歌は「万葉集」に類歌があります。この辺りは編者の意図的な構成のようですが、最後まで読まないと効果はわかりません。
ここで出てくる朝顔は今私たちが見ているあの朝顔のようです。この、早朝に咲いて日差しを受けるとすぐにしぼんでしまう朝顔は平安時代に渡来したもので、「万葉集」に出てくる朝顔は桔梗ではないかと見られています。昼顔っぽい歌もあります。
三十八
昔のこと。
男が紀有常(きのありつね)の家に行ったら、有常は外出中で還りが遅くなったので、(男は有常の出先に)こう詠んで送った。
君により(あなたの帰りが待ち遠しくて、おかげで
思ひならひぬ(思い知りました
世の中の(世間の
人はこれをや(人はこれを
恋といふらん(恋というのですね
有常はこう返した。
ならはねば(恋を知らないので
世の人ごとに(世間の人の言葉に
何をかも(何を
恋とはいふと(恋と言うのですかと
問ひし我しも(尋ねた私がまあ、よりによってあなたに恋を教えるとはね
なんだろう、この話。
紀有常は十六段に出てきた、在原業平の友人だった人。有常の名が出ているのでこの「男」は在原業平と想定していいと思うのですが、歌自体は「伊勢物語」筆者の創作です。男性同士、友人同士の相聞で、待ちくたびれた「男」が「待ちくたびれたよ、これが恋というやつかな」と歌い、相手は「私があなたに恋を教えたと言われる日が来ようとはね」と返した、と、そういうお話。
今なら人気俳優の Instagram にでもついていそうなエピソードです。
「万葉集」をもとにした創作の段がいくつか続いて、この三十八段からまたちょっと雰囲気がかわります。
次の段が淳和天皇の話のようで、めんどくさそうなので今週はここまで。
📚 つづく…… 📚