プール雨

幽霊について

伊勢物語 第十七〜十九段

 「源氏物語」はどこを読んでも気が重くなるので読みたくないとか言っていたら罰が当たり、どうしても読まなければならない状況に追い込まれたのが先月のことにございます。つろうございました。「いやだっつってんでしょ」と虚空に向かって叫びましたがたれも聞いてはくれませんでした。さらに行きがかり上、「平家物語」も読まなければならなくなり、合間合間に「伊勢物語」も読み、おまけに趣味の秦王国の本も読んでおり、一日の間で何百年も行ったり来たりしておりまして、私、頭がどうにかなりそうです。

 ですから時代考証とかそういう話はもうこの際どうでもよく、ただただ、ぼーっと「光る君へ」の第六回を拝見しておりました。私は吉高由里子黒木華が好きでございますゆえ。もうまったく冷静ではありません。今週、本格的に何の話かわからなくなりました。今週はこの世界の良心、藤原実資が出てきませんでした。もうそれだけで私は「こわいよう」「なにをいっているのかわからないよう」「どうしてそうなるんだよう」と震えることになってしまったのでございます。

 主人公のまひろと道長は演出が現代的で、たとえば横に源倫子などが立つとハレーションが起きます。それだけ取ってもなにか、すっごく変わったものを見せられているようで、はたして私は最後まで併走できるのか、かなりあやしくなってきました。

 でも来週は藤原実資が出ていて、予告でも「ばかな!」だったか「ありえぬ!」だったか忘れましたがきわめて私の実感に近い言葉を発していたので、それを頼りにいたします。

 「伊勢物語」の方はは刻一刻、「筒井筒」に近づいております。

〜これまで〜

十七

 しばらく訪ねてこなかった人が、桜のさかりに見に来たので、家の主人はこう詠んだ。

   あだなりと(移り気だと

   名にこそたてれ(世間では言われていますね

   桜花(この桜という花は

   年にまれなる(でも、一年の間に訪れもまれな

   人も待ちけり(人のことでも、待っていたのですよ

 人はこう返した。

   けふ来ずは(私が今日来なかったなら

   あすは雪とぞ(この桜も明日には雪のように

   降りなまし(散り降ってしまっていたでしょう

   消えずはありとも(それが消えないで残っていたとしても

   花と見ましや(だれが桜だと思うでしょう

 一応意味が通るように訳したつもりなんですが、「人」の歌が意味不明になってないか心配です。

 「昔」「男」「女」といった「伊勢物語」定番の語彙が出てこない段です。「昔」がついている系統の本もあるそうです。

 訪ねてきた人は原文でも「人」で、待っていた人は「あるじ」です。恋愛関係を匂わせていると読むことも、たまに訪ね合う友人同士のやりとりとしても読めます。私は後者で読みました。登場人物が「ひと」と「あるじ」だし、それでいいかな、と。

 家の主人が「ひさしぶりだね。桜は気分がかわりやすいと言われるけど、こうしてたまにしか来ない君を待っていたよ」と言うと、「人」が「もし今日来なかったら明日には散っていただろうし、散ってしまったら花とは見えないんだし、別に私を待っていたわけじゃなくて、たまたまでしょ」と応じたというお話。

 この人が来たのも、桜を見に来たというよりは久しぶりに訪ねたら桜が満開だっただけで、桜目当てじゃないよ、という話にも読めます。「久しぶりに来たと思ったら桜が見頃なんて、調子のいいやつ」「たまたまだよ、桜目当てじゃないよ」と応じていると。

 「あだなりと……」は詠み人知らずで「古今集」に載っていて、「けふ来ずは……」は前の歌に対する返歌として業平の名で「古今集」に載っています。

十八

 昔のこと。

 女がいた。すこしばかり、風流心のある女だった。

 男が近くに住んでいた。

 女は歌を詠む人であったので、男の風流心を試してみようと、菊の花で色があせてきたものを折って、男の元におくった。

   紅に(紅に

   にほふはいづら(輝くのはどのあたりでしょう

   白雪の(白雪が

   枝もとををに(枝もたわわに

   降るかとも見ゆ(降ったように見えます

 男は歌の真意に気付かぬふりでこう返歌した。

   紅に(紅色に

   にほうがうへの(美しく色づく上に

   白菊は(白を重ねる白菊は

   折りける人の(この花を折ったあなたの

   袖かとも見ゆ(袖の襲の色かと思われます

 これも、意味が通るように訳したつもりではあるのですが、どうでしょう。

 「風流心」は原文だと「心」です。文脈によりますが、「心」の語ひとつで「詩歌管弦などに通じ、趣味や情趣を理解する心」を表現できます。「女」は「心」が「なま」と原文にはあるので、それが未熟で中途半端だということです。

 もののあわれや情趣を解するということの中には恋愛の情緒や雰囲気を楽しめるということも含まれます。女はその未熟な「心」で、近所に住んでいる男にちょっかいを出したのです。「男」は色好みだと評判の男です。萎れはじめた菊を贈って「紅ににほふはいづら(紅に輝いているというけどそれはどこ?)」と問いかけています。あなたは色好みだというもっぱらの噂だけど、ほんとにそうなの? というメッセージで、「白雪の枝もとををに降るかとも見ゆ(枝もたわわに白雪が積もっているように見えます)」というのは、色事に興味があるようには見えないけど? という意味です。

 これに対して男は女の歌の真意には気付かないふりで、「白菊は折りける人の袖かとも見ゆ(白菊はこの菊を手折ったあなたの袖の襲の色かと)」と応じます。趣味がいいですね、とだけ言ってかわしたと、そういうお話。

十九

 昔のことだ。

 男は、帝に仕える女人のところで働く女房と恋愛関係になった。ところが、いくらもしないうちに別れてしまった。同じ宮中にいるので、女の目には男の姿が入るが、男は女がいるとは思いもしない。女は、

   天雲の(天雲が

   よそにも人の(遠ざかるようにあなたも

   なりゆくか(離れて行くのでしょうか

   さすがに目には(やはり妻の目には

   見ゆるものから(あなたの姿が見えますのに

 と詠んだ。男はこれに返して、

   天雲の(私が天雲のように

   よそにのみして(あなたから離れてばかりで

   ふることは(過ごしているのは

   わがゐる山の(私たちのいるこの山の

   風はやみなり(風が激しいせいなのです

 と詠んだ。これは、女に別の男が通っているからだと人びとは噂した。

 題材になっているのは「古今集」に載っている「天雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから」と「ゆきかへり空にのみしてふることはわがゐる山の風早みなり」の贈答です。これは在原業平が紀有常の娘と婚姻関係にあって通っていたころ、なんか喧嘩しちゃって、業平が昼は来るんだけど夜は帰るという異様なことをしていたらしいんですよ。それで「天雲の……」と来る。「古今集」には有常女(ありつねのむすめ)の歌として載っています。「めにはみゆるものから」が「目には見えるのに」と「妻(め)と顔は合わせているのに」の二重の意味になっていて、舅である有常が詠んだと考えた方が意味が通るという人もいます。私もその方が意味がみえやすい。この贈答、ちょっと視点が当事者っぽくなくて、その場に女がいない気がする。その後の業平の「風はやみなり(風が激しいせいなのです)」が「妻が気性が荒くて近寄れないんです」の意味だとすると、舅と婿の贈答として一応意味が通ります。

 「伊勢物語」では、古今集から引っ張ってきた題材を少しいじって、宮中でそれぞれが出仕していて、男の方は女を気にかけておらず、そこにいると思ってもいないが、女の方からは姿が見えるので気になってしまう、と、「古今集」より自然な話になっています。

 この段なんか読むと「伊勢物語」の作者はいろんな歌を集めてちょこっと詞書きを添えて編集したというのをこえて、完全に物語を書いていますよね。出世ルートからはずれた貴族が歌を詠みながら回遊する、みたいな。まだ全体の一割くらいなので海のものとも山のものともわからないまま訳していくこの営みが今更ながら不安になって参りました。

📚 おしまい 📚