プール雨

幽霊について

伊勢物語 第十六段

悪霊退散!

 昨日はスーパーに行きましたら太巻きがたくさん売られていて、私も「ハーフ」なるものを買い求め、食しました。そしたらば、「太巻き欲」に火がつきまして、まだまだ食べたい。今日は食べなかったので、明日は食べたい。そんなことを思う立春です。

 今日は「光る君へ」第 5 回の放送がありました。えっ、まだ 5 回なの? と指折り数えてしまうほど、毎回毎回刺激が強く、びっくりしどおしです。5 回といいつつ、それをもう 3 回くらい経てしまったのではないかという体感にございます。

 このドラマは支配階層のお話なので、登場人物の言動の大部分がきもいです。考え方がきもいです。人間、あんまり無体な権限などしょいこむものじゃないですね。人生がきもくなっちゃう。もうすこし自分自身の快適さとか考えたらどうなんでしょう。今週特にきもかったのは兼家です。なにも説明したくないほどのきもさでございました。

 そういえばこの世界は御簾や几帳があまり役割を果たさず、貴族の姫君たちもすごく端近にいるので、「垣間見」が成立しないんですね。ばーん! と見えてる。猫を追いかけて三人の公達の前に豪快に姿を現す源倫子は、あの豪快さのせいで道長と縁ができてしまうという流れなんですねえ。やはり猫を追いかけて御簾がふわっとなって姿が見えてしまう女三の宮を「源氏物語」の語り手は批判的に語っていますが、このドラマではそうじゃないです。倫子様の鷹揚さ、豪快さ、明るさがどこまでも画面を照らしていました。兼家の目がキラーンとしてさあ。

 そして、ロバート秋山演じる藤原実資が物語内では貴重な、実に貴重な、まともな人間であるというこの不思議な状況がすごいです。くらくらいたします。この人、終わりの方までずーっと、切れ目なく出てくるはずなので、私の藤原実資観が心配です。

 さて、大河ドラマを見るついでに読んでいる「伊勢物語」ですが、今週は大事な十六段なので、一段だけ。ゆっくり読みました。もう絶対、ドラマ終了までに読了できない。

〜これまで〜

 「俺なんかどうせ!」と京をあとにした「男」だったが、雅の世界を捨てきれず、各地で出会った女は捨てて都に帰ってきた。

十六

 むかし、紀有常(きのありつね)という人がいた。三代の帝にお仕え申し上げ、一時は運にめぐまれて出世もしたが、のちに帝が代わり、それに伴って繁栄もほかに移ってしまい、そのために世間人並みの生活すらままならなくなった。

 人柄は心がきれいで、風雅なことを好み、そういうところがほかの人とはちがう。貧しい暮らしぶりでも、やはり昔のよかった頃の心のままで、世間一般の常識的なことも知らない。

 長年連れ添い親しみ合った妻も、だんだん共寝をしなくなり、とうとう尼になり、姉が先に出家して暮らしていた所へ行くのを、男は、真に仲が良かったなどということはなかったとはいえ、「では、これで」と妻が出ていくと、ひどく動揺し、愛しく思いながらも、貧しくて、このようなときにしてやるべきこともできなかった。有常は思い悩み、近しく色々と話し合ってきた友人のもとに「これこれこういうことがあって、『では、これで』と言って妻が出ていくのに、少しのこともしてやれずに、そのまま行かせてしまったのです」と手紙を書き、最後にこう詠んだ。

   手を折りて(指を折って

   あひ見しことを(一緒に暮らした年月を

   かぞふれば(数えると

   十といひつつ(十年と言いながら

   四つは経にけり(それを四年も過ぎたのだ

 その友人はこれを読んで、言い様のない気持ちになり、尼のために夜具の類いまで送ってこう詠んだ。

   年だにも(年ひとつとっても

   十とて四つは(十年を過ぎること四年も

   経にけるを(ともにしてきたのだから

   いくたび君を(彼女はどれほど君を

   たのみ来ぬらむ(頼りに思ってきたことだろう

 このように書いて送ったところ有常は、

   これやこの(これこそは

   あまの羽衣(天の羽衣

   むべしこそ(なるほど

   君がみけしと(あなたのお召し物として

   たてまつりけれ(お召しだったものですね

 (と礼を丁重に述べたあと、)喜びにたえず、さらに続けて、こう詠んだ。

   秋や来る(秋が来るのでしょうか

   露やまがふと(露が季節を間違えて降りたかと

   思ふまで(思うほど

   あるは涙の(目の前にあるのは涙。涙が

   降るにぞありける(こぼれているのでありました

 この段のように「伊勢物語」は実在が推定できる人物のエピソードも挟まっています。古歌に話をつけた段あり、貴人のエピソードが実名つきで語られる段あり、古くから伝わる伝承を組み合わせた段ありと、固有名と普通名詞の間を行ったり来たりします。

 紀有常(きのありつね)は九世紀の実在が確認されている貴族。「伊勢物語」の編著者説もある紀貫之は有常のお父さんの兄弟の曾孫。有常の妹は文徳天皇の更衣であった静子で、文徳天皇は静子との子、惟喬親王を溺愛したという説が残っていますが、藤原良房の娘、明子が入内しており、立太子したのはそちらの子でした。そんなこともあって、紀氏は政治や軍事に対して影響力がもてなくなっていったと見られています。「男」のイメージの中核にある在原業平同様、「伊勢物語」は名門の出でありながら、栄花からは少し遠い人にスポットを当てています。

 「三代の帝」は史実によれば仁明、文徳、清和。在位期間は仁明から順に 833-850、850-858、858-876。仁明天皇即位の時点で有常は十七、八歳だったとみられています。その頃から宮中に仕え、文徳天皇の代では武官として着実に出世するのですが、先述のように時勢がかわり、中央からは離れることになります。「世間一般の常識的なこと」の原文は「世の常のこと」で、平均程度のことというだけでなく、たとえば官位を求めるために人を頼るとか、そういうことも含まれると思います。「光る君へ」の最初の方で、藤原為家藤原為時*1が親戚の宣孝から、ちゃんと就職活動をせい、手紙を書いてしかるべき相手に口添えを頼めと忠告していますが、ああいうことです。

 ここでは「十といひつつ四つ」「十とて四つ」を「十四年」と解釈しました。ほかに「四十年」という解釈もあり、そちらの方が主流です。言葉ならびとしては「四十年」と解釈するのが自然で、「十四年」は無理があるかなと思います。ですが、当時の夫婦関係を考えると、四十歳前後に床離れするのが標準的だし、有常は文徳代末頃には中央政治から離れはじめるので、「十四年」の方を取りました。まあでも、歌なので。「すごく長い」ということを漠然と表しているとも考えられ、教材だとしたらここで「四十年」と解釈できた方がよいと思います。

 「手を折りて……」と「年だにも」は「在中将集」にも収められている、業平の歌。「秋や来る……」が「新古今集」に収められる紀有常の歌です。

 ここで有常について言われている「ひとがらは心うつくしくてあてはかなることを好みて、こと人にも似ず」というのが、「雅」を構成するのでしょう。

 しかし時代は九世紀。もう武士の世の地ならしが始まっている。「あてはか」は現代に言う「あでやか」の類語ですが、ちょっと用例にひとくせあって、難しい語のひとつです。『日本国語大辞典』では「『源氏物語』等では、都を遠く離れた地方で長年暮らしていた人々について使われ、品位など期待していなかったのに、案に相違して品位があるように見えるという場面に多く見られる」と説明しています。「伊勢物語」では宮中で影響力をもてない中級貴族、紀有常について言っているので、日国の分析とも整合すると思います。

 というわけで、この「男」って人は妻や恋人に対しては結構酷薄なところも見せるんですが、同性の友人に対しては誠実で、いい人なんですよね。「光る君へ」は道長(と実資)以外の男性を誠実さや高潔さとはほど遠い感じで描写していて、今のところ道長が「掃きだめに鶴」的に輝いているので、「伊勢物語」にあるような同質社会で助け合う男性同士の姿は見られない流れになっています。すごく孤独そうで、友情も恋情もまひろ一人に向かっています。

📚 つづく 📚

*1:間違えてしまいました。ほかでも為時を為家と言ってしまっている。