プール雨

幽霊について

伊勢物語 第十一〜十五段

 今週の「光る君へ」は体感 20 分でした。びっくりしてたら終わったよ。なかでも藤原道隆が言った、われわれは大きな秘密を抱えたのでこれでまた家族の結束が強まりましたナ……的な文言の意味がわからなかった。共犯関係を結束と言い換えることはままあるけれど、それをあれほどにあけすけに言ってしまうとは、もしかしたらこの道隆、あほぼん(あほなぼんぼん)? あほぼんとして描写されてしまうの?

 わかりません。

 とにかく、このわからなさに耐えるためにも、乗りかかった舟はこぎ続けなければなりませぬ。

 「伊勢物語」、もういいかげん東下りから脱出いたしとうございます。

第一〜五段 第六段 

第七〜九(かきつばた)段 第九(宇津の山辺、時知らぬ山、都鳥)段 第十段

〜これまでのあらすじ〜

 都にはもう住めない、俺なんか役立たずだし、と言って東国に旅立った男でしたが、行く先々で女性にちょっかいを出してしまうのでした。

十一

 昔のこと。

 男が東国に行ったとき、友人たちに道中から歌を詠んでよこした。

   忘るなよ(忘れないでくれよ

   ほどは雲ゐに(雲居の空のように遠く

   なりぬとも(へだたってしまったとしても

   空ゆく月の(空をめぐる月のように

   めぐりあふまで(私たちもまた、めぐり会えるから、その時まで

 歌は「拾遺和歌集」に収録されている橘忠幹のもの。元々は友人宛てではなく、恋人に送ったとか。歌だけひっこぬいて、東国めぐりの章に入れて、男像を膨らませたんですね。

 「ほど(程)」は時間的または空間的な隔たりを表す言葉で、「ほど/は/雲ゐ/に/なり/ぬ/とも」は直訳すると「隔たり/は/遠く離れた状態/なっ/てしまっ/ても」ということ。雲居、空、月、めぐりあふは縁語。

十二

 昔のことだ。男がいた。

 ある家の娘を誘い出して武蔵野につれて行ったところ、男は娘を盗み出した盗人であるので、国守が捕縛してしまった。男は女を草叢の中に隠して、逃げていたのだった。男を追ってその道を来た人が「この野に盗人がいるそうだ」と言って、火をつけようとした。女は困り果ててこう歌った。

   武蔵野は(武蔵野を

   けふはな焼きそ(今日はどうか焼かないで

   若草の(若い

   つまもこもれり(夫も隠れています

   我もこもれり(私も隠れています

 人はそう詠むのを聞いて、女を捜し出し、男とともにつれて行った。

 「武蔵野は……」は「古今集」に収められている有名な古歌「春日野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」(詠み人知らず)の初句「春日野は」を「武蔵野は」に書き換えたもの。おそらくは男女も逆にして、伊勢物語に挿入しています。元は春の野焼きのときに歌ったものなので、話が全然違います。だいぶ大胆な改変です。

十三

 昔のこと。

 武蔵の国にいる男が、京にいる女のもとに「申し上げればきまりが悪いし、申し上げないとなると悪いことをしているようで心苦しい」と手紙に書いて、表書きに「むさしあぶみ(武蔵で私はほかの女に会う身となった)」と書いてよこしたのち、便りがなくなってしまったので、京から女が

   むさしあぶみ(武蔵の土地で別の女の元に通っていると

         紙に書いてよこしたきりですが、

   さすがにかけて(この状況でもあなたのことを心にかけて

   頼むには(頼りにしている私には

   とはぬもつらし(お便りがないのも辛いし

   とふもうるさし(あんなお便りがあるのもわずらわしいのです

と詠んでよこした。それを読んで、男はやりきれない気持ちがした。

   とへばいふ(便りを出せばこんなことを言うし

   とはねば恨む(便りを出さなければ恨む

   むさしあぶみ(左右どちらにもかかる武蔵鐙のように、

         どちらの女にも心がかかっている

         俺はどうしたらいいのだ

   かかるをりにや(こんな時に

   人は死ぬらむ(人は死ぬのだろう

 むさしあぶみ(武蔵鐙)は馬具で、馬に乗る人が足を踏ん張るためのもの。これが日本列島にやってきた経路も気になるところですが、ひとまず、大陸から来た職人が武蔵の辺りで技術を伝えて、土地の名産となったのだろうと推定されています。この「あぶみ」と「会ふ身」が掛詞になっていて、男が武蔵の国でほかの女に「会う身」であると、元いた京の恋人に告白しているようです。「さすが」はあぶみをつける革の金具のことで、「むさしあぶみ/さすがにかけて」の表の意味は単に「武蔵鐙を/さすがにかけて」ということになります。ここに「会ふ身」と「さすがに(そうは言ってもやはり)」の意味がかかっているので「武蔵でほかの女に会っている男を/そうは言っても心にかけて」の意味になります。

 「男」は京から武蔵の国に出向いています。そういう状況であれば武蔵の国で妻をもつことは別段おかしな話でもなかったので、同じ状況で元の女に便りを出さない男もいたでしょう。でも、この男は京の女にも未練があったから、「決まり悪いけど、言わないのも何だから、言うね。こっちで妻ができたよ」と手紙を送ったんですね。それを読んだ京の女が「いずれそういうことになるとわかってはいたけど、一応あなたを頼りにしているの。手紙がないのは辛いけど、手紙で浮気の報告なんかされてもむかむかするし、どうしたらいいの」と返事した。男はそれを読んで「うあー、どうすればいいんだ。もう、死んじゃおうかな」とつぶやいた。

 さて、この男、妻もいることだし、このまま武蔵に居着くんでしょうか。

十四

 昔のことだ。男は、陸奥(みち)の国にふらふらと行き着いたのだった。そこに住む女が、京から来た男を珍しく思ったのだろうか、一途に男を慕うようになった。そして、その女はこう詠んでよこした。

   なかなかに(なまじっか

   恋に死なずは(恋に焦がれて死なないでむしろ

   桑子にぞ(蚕に

   なるべかりけり(なればよかった

   玉の緒ばかり(短い間でも、二人で仲良く暮らせるのなら

 女は、歌までも田舎じみていたのだ。男はそうはいっても胸を打たれたようで、女の元に行って共寝をした。男が夜の深いうちに家を出てしまったので、女が

   夜も明けば(夜も明けたなら

   きつにはめなで(水槽にぶちこんでやる

   くたかけの(にくたらしい鶏め

   まだきに鳴きて(まだ夜も明けないうちに鳴いて

   せなをやりつる(私の夫を帰してしまった

 と歌に詠んだところ、男はここを去って京へ帰ると言って

   栗原の(栗原の

   あねはの松の(あねはの松が

   人ならば(人であったなら

   都のつとに(都へのみやげに

   いざといはましを(さあ行こうと連れて行ったものなんだが

 と言ったのだが、女は喜んで、「私のことを思ってくれているらしい」と言っていたのだった。

 男、さらに北に。奥州の辺りですが、この辺りの「みちの国」がどの辺なのかはかなり漠然としています。武蔵の国にもいづらくなってさらに北に行った、と読んでもよい構成です。遠くに来ました。

 男の雅が女に通じなかったので、男は女を捨てたが、そのことを女は理解しなかったという話。都人のイヤなところが前面に出たエピソードです。傲慢ですね。

 「この都にいても何の役にも立たない」と思って東国に旅立った男がその土地土地で女の元に通って、結局「あねはの松の/人ならば/都のつとに/いざといはましを」なんて言ってしまう。この「人」って実質的には、「情趣の通じる人」ってことでしょう。都でやっては行けないと思った男が、結局雅を捨てるという発想を持つことすらできず、その土地の女が詠んだ歌をバカにする。

 でも歌は都だけのものじゃない。土地土地にその土地のもの、土地の生活があって、いろんな人がいろんな風に歌う。そういうのを全部、多分今の言葉で言うと「文化がちがうな〜」で済ませて、男はすたこらさっさと京に帰るのでした。

十五

 昔のことだ。

 みちの国で、特になんということもない普通の人がいて、その妻のところに通っていたところ、不思議と、このような土地でこのような暮らしをするような女とは思えなかったので、

   しのぶ山(しのぶ山

   しのびて通ふ(隠れて通う

   道もがな(道があればいいのに

   人の心の(人の心の

   奧も見るべく(奧も見られるような

 と詠んだところ、女はこのうえなくすばらしい歌だとその心を喜んだ。しかし男は、そのように喜ぶ、どうということもない、田舎じみた女の反応を見て、どうしようもないと思った。

 勝手なこと言ってますね。

 人妻のところに通っといて、勝手に期待して、はしたない歌を詠んで、その歌に相手が喜んだら「なーんだ」とがっかりするという。

 ばかなのか? としか思えません。

 「さるさがなきえびす心を見て(そのようなとりえのない、教養のない心を見て)」はこっちの台詞だ、と言ってやりたいです。

 この十四、十五段で著しく落ちてしまった「男」の好感度。それもこれも「京=雅の世界」を捨てて、「あづま」の国に来ているから起こることです。あづま、京の連中になめられている。十段の「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」は男が言い寄っている女ではなく、その母親が詠んでいます。母親は藤原氏で、おそらくは親がこの土地に任官されて来たときに、土地の男と結婚して定住したというケースだと思うのですが、元は貴族なので、娘のかわりに歌を詠む。雅の残滓みたいなものがある。十三段では、男はみちの国に残るか京に帰るかどっちつかずで辛いと言いながら、十四段でみちの国の女の詠む歌をばかにしているし、十五段では女を「ちょろい歌で喜ぶ」とやはりばかにしている。

 と、そのようにしか読めない。

 当時の恋と雅の結びつきとその背後に横たわる教養と、教養をもって出世し、家族を形成し、場合によっては岩をも動かしていた時代のお話、ととりあえずは「かっこ」にくくっておいて、東下りの章段は終了します。続きを読めば男が「身をえうなきものに思ひなし」た理由が立体的になるのでしょうか。

📚 おしまい 📚