プール雨

幽霊について

志磨遼平「今の世界に慣れないで」

 東京新聞には志磨遼平の不定期コラムがあり、「次に載るのはいつなのかな」といつも楽しみにしています。これは「バンドマンである筆者が本紙をお読みのみなさまに日々の悩みを相談させていただくコラム」です。毎度毎度、頼りなげながらも生真面目な書きっぷりが楽しく、「まじめ」ってすばらしいことだと思えるひとときです。今月は「やりきれぬ災いが続いて」いて、「被害に見舞われた方の暮らしを思うと心苦し」くなる、こんな事態に「バンドマンがすべきことはなにか」ということを考えています。

東京新聞 2024 年 1 月 12 日朝刊より

 ここにいう「バンドマン」は他の職業にも置き換え可能……というわけではありません。志磨遼平はバンドマン、ロッカーとは何かということに立ち返って具体的に、実感に即して考えています。志磨遼平の考えるところ、ロックンロールとは「悩みをかかえたままひとりでいろ、俺も同じだ」という思想です。だから、煽動に惑わされることなく、ひとりで考えひとりで行動し、そして「自蔑することなく、悪びれることなく、おのおのにできる善行を」、そしてそれと同じ分だけ「どうでもいいことを」と呼びかけています。個人的なところからスタートして、最後は不特定多数の人に響くような、呼びかけでありながら誓いでもあるところに至る、勇気の出る文章でした。

 これに類する呼びかけをつい数カ月前にも目にしていました。いつ読んだか忘れてしまい、「しまった、メモしておくんだった」と今後悔しているのですが、思い切って書きますと、飜訳家の方がふと「みんな、世界に不慣れで、孤独な存在として生まれてきて、だんだんマジョリティに組み込まれていく。弱い人からそっち側に行ってしまう」というようなことをつぶやいておられたのです。X が Twitter だったころのことだと思います。そうだな、弱いから「世間」や「空気」や「みんな」の方に吸い込まれてしまうんだな、自分の声を聞こえないことにしちゃうんだな、と色々思い返しました。

 中学のとき、それまではなかった「先輩後輩の上下関係」というものがある空間に飛び込み、びっくりしました。なんと、廊下で先輩に会ったら、後輩は「おつかれさまです」と頭を下げるしきたりがあったのです。その他、先輩の要求がどれほど理不尽でも後輩は元気いっぱい応じなければならないとか、異様な風習があり、私たち新入生はびっくりしていました。そして、自分たちが上の学年に上がったら、あんなことはやめようねと話し合いました。でも、進級するごとに同級生達が上下関係がある状況に慣れ、やたらと威張り散らすようになるのを見て、さらにびっくりしてました。

 理不尽や意味不明な慣習にいちいち異議を唱えず、それに従って動いていればいつか意味がわかるサ的なことを言う人もいますし、それを「道徳」として主張する人もいます。が、そういう「いちいち考えずに従う」ことの積み重ねが、たとえば能登半島地震に対する冷酷な態度に結びついたってことも事実なんじゃないでしょうか。まわりと同じように考え、行動することをよしとしているうちに、いつしか残酷で凄惨な道に突き進んでしまうということは歴史をひもとかなくても、今のロシア政府やイスラエル政府、そして日本政府のしていることを見ればきりきりと迫ってくることだと思います。

 「マジョリティに配慮せよ」とメッセージを出した政治家がいましたが、あれは「支配構造に組み込まれて、差別を再生産する主体として生きている我々の支持者に疑いをもたせるな」ということですよね。

 この辺りは、みなさんそれぞれにぴんとくる言葉、ぴんとこない言葉があると思います。穂村弘は「大穴」って言ってた*1と思うし、能町みね子も何か、まとまった表現をしていたと思います。「世間」や「みんな」に気を遣って自分を見失わないでほしい、自分を裏切らないでほしい、ということを、時に作家は、どうしても表明せねばならない事態に出会うもののようです。

 志磨遼平の「今の世界に慣れないで」という呼びかけは、シンプルな言葉だけに、「みんな」の側に吸い込まれてしまいそうなときに支えになってくれそうです。「大穴」に落ちてしまいそうなときに、しっかりとその場にうずくまり、一時嵐が過ぎるのを待てる、そんな表現だなと思います。

💃 おわり 🚶

*1:穂村弘『本当はちがうんだ日記』