プール雨

幽霊について

伊勢物語 二十五段

 ちかごろうちのまわりで咲いている花。

木瓜

茱萸

ネモフィラ

二十五

 むかしのことだ。男がいた。会うとも会わないともはっきりとは言ってくれない女がいて、さすがにそういうことをする女だけあって、男はどうしても惹かれてしまう。それでその女にこう詠んでやった。

  秋の野に(秋の野に

  笹わけし朝の(笹の間を歩きながら濡れた朝の

  袖よりも(袖よりも

  逢はでぬる夜ぞ(会えずに一人で寝る夜こそ

  ひぢまさりける(もっと袖が濡れるのでした

 恋を楽しんでいる女はこう返した。

  みるめなき(海松布〔みるめ〕などない

       /会うことのない

  わがみをうらと(この海岸だと

       /我が身だと

  知らねばや(知らないのでしょうか

  かれなで海人〔あま〕の(あきらめもせず漁師が

            /離れもせずあなたが

  足たゆくくる(疲れた足をひきずって訪ねてくる

 色々めずらしい段。

 二首目は「みるめ」が海藻の「海松布〔みるめ〕」と「見る」の掛詞、「みを」が「水脈」と「身を」の掛詞で、全体として「海藻なんかない海岸なのを知らないのだろうか、漁師があきらめもせず疲れた足をひきずってやってくる」と「会うことのない私だというのに、あなたは離れることなく疲れた足をひきずって毎夜訪ねてくる」との二重映しになっています。みるめ、みを、うら、海人などは縁語。技巧的なこの歌と、「あはじともいはざりける女のさすがなりける」「色好みなる」と言われている当の「女」の行動に釣り合いが取れていて、話にまとまりがあります。

 この「色好み」は助平ということではなく、恋愛の情趣、恋のやりとりを楽しめる教養や余裕があることを意味します。「伊勢」は基本的にそんな「色好み」の「男」(たち)のお話ですが、この段で「色好み」と言われているのは「女」の方です。

 こちらの歌、二首とも元がはっきりしていまして、一首目は業平の名前で「古今集」に収められています。同じ「古今集」でその隣に配されているのが二首目で、これが小野小町の歌。

 小野小町は九世紀頃に歌人として歌を残していますが、経歴不明です。もう少し前の時代に生きていれば経歴も多少残っていたでしょうに、残念です。

 それでも、物語と違って和歌は読み手として名前が残るので、今でもこうして固有名のついた表現として読むことができます。

 在原業平とは関係のない人なので、もちろん二人の歌で贈答が成立していたわけではありません。時期もずれています。当然、わかっていながら「古今集」でこの二首が並んでいることをおもしろいと思った「伊勢」の著者が二首をくっつけて二次創作したんですね。

 二十五段の物語の方にもどると、男の方が「笹わけし朝の」と朝露に濡れた朝のことを書いているので、この二人、少なくとも一度は夜をともにしている。「女」のところから朝帰りするときに、朝露で袖が濡れた、というのが前半。和歌で「袖」とくれば「濡れる」、「濡れる」といえば「涙」。「袖」の語ひとつで涙は連想できるので、業平の歌にもわざわざ「濡れる」だのなんだのは出てきませんが、やっぱり朝露や涙で乾く間もない袖のようです。「会ってからの方が悩みが多い」式のややこしい話ではなく、「どうしても会いたい」とストレートに言っていて、素朴な気持ちになります。

 これに対して「女」の方がやはり上手というのか、余裕があります。「男」は恋をしていて、会いたくて会いたくてしんどいと言っているのに対して、やっぱり「女」は恋してないんですね。「会わないのに。毎夜毎夜疲れた足をひきずってやってくる」と状況を説明されてしまう。

 完。

 この二首、元々関係のない歌なので、一首目で「朝」「露」「袖」などを並べているのに、二首目でそれに応じておらず、贈答として見るとうまくないというか、成立してない。もともと贈答歌じゃないものをそのように配するのは、ちょっと無理がある。でも、ずっと「色好み」を押し通してきた「男」が全然歯の立たない「女」に対して、歯が立たないがゆえにどうしても惹かれるという話になっているのはおもしろかったです。

紫の花、いろいろ

📚つづく……📚