プール雨

幽霊について

伊勢物語 二十三段 筒井筒

 『光る君へ』の舟から下りてはや十日。日常をとりもどしつつあります。やはり、日曜の夜に連続ドラマを見ると生活のサイクルが乱れます。主人公と主人公の親が理不尽な目に遭った翌朝、ふつうの顔をして働くなんてできません。大河ドラマは今後、金曜か土曜にお引っ越ししてはいかがでしょうか。そして現代もの、創作ものをやるのです。日本のドラマの明日のために。

 と、上から見ていてもしかたがありません。

 上からものを見ると一瞬わかったような気になりますが、それは幻想。現実にはただ、大河ドラマが私の目の端を通り過ぎていくだけのこと。みんな楽しそうだからついつい私も私も見たくなりましたが、欲張りはいけません。私にはアストリッド……いえ、今、『アストリッドとラファエル』シーズン 4 最終回の話をするわけには参りませぬ。長くなりますから。

 先週の日曜日には目の前の TL を「埋めた」「二人で埋めた」「手で掘って埋めた」という文字が流れていきました。『光る君へ』最新話でだれかがだれかを埋めたのですね? 火葬でも鳥葬でもなく、土葬を決めたのですね? 人体を埋める問題については、ワタクシ、うるそうございます。たいへんな仕事ですもの。ワタクシが見ていなくて、『光る君へ』、命拾いをしましたわ。人体を埋めるシーンを見れば、その作品のリアリティレベルがまるわかりです。そして、埋めても埋めてもいつかは表に出てくるもの。それが死体。それが物語的想像力。

二十三 筒井筒

 むかしのこと。

 都ではなく、田舎で仕事をしていた人の子どもたちが、共同の井戸のそばに出てともに遊んでいた。大きくなってしまい、男の方も女の方も互いに恥ずかしがって以前のようには遊ばなくなった。しかし、男の方では強く、この女とともに生きていきたいと願っていた。女の方でも、ともに生きるならこの男と望み続け、親が他の男に会わせようとしても、言うことを聞かずにいた。そうこうしているうちに、この隣の男より、歌を詠んできた。

  筒井つの(丸井戸の

  井筒にかけし(井戸枠と比べて遊んだ

  まろがたけ(僕の背丈も

  過ぎにけらしな(そこを超えてしまったようです

  妹見ざるまに(あなたと会わないでいるうちに

 女は返歌した。

  くらべこし(長さをくらべあって過ごしてきた

  振り分け髪も(私の振り分け髪も

  肩すぎぬ(肩の辺りをすぎました

  君ならずして(あなた以外の誰に

  たれかあぐべき(私の髪上げを許しましょう

 と、お互いに言い交わして、ついに二人の元からの希望通りになった。

 そうして年月がすぎるうちに、女は親が亡くなり、暮らしのよりどころがなくなるにつれ、男は二人でこのまま不如意なことが多い状態では生きていけないだろうと考えて、河内の国、高安の郡に、新しい相手が出来たのだった。それなのに、このもとの女は、そのことを不愉快だと思う様子もなく男を送り出してやるので、男は女にも別の相手がいて、それでこのようにできるのではないかと疑い、植え込みの中に隠れて座り、河内へ行ったふりをして見ていると、女はきちんと身繕いをして、ぼんやりと物思いにふけって、こう詠んだ。

  風吹けば(風が吹くと

  沖つ白波(沖に白く浪が立つ

  たつた山(そんな浪のように心細い、あのたつた山を

  夜半にや君が(真夜中になるのだろうか

  ひとりこゆらむ(あなたがひとりで越えるのは

 男はこの歌を聞いて、この上なく愛しいと思い、もう河内へは行かなくなった。

 たまさか、例の高安に来てみたところ、男が通い始めたばかりのころは女もおくゆかしくふるまっていたが、今は慣れて、自分で飯を盛っていたのを見て、いとわしく思って通わなくなった。それで、高安の女は大和の方角を見やってこう詠んだ。

  君があたり(あなたのいるあたりを

  見つつ居(を)らむ(見ながら暮らしましょう

  生駒山生駒山

  雲なかくしそ(雲よかくさないで

  雨は降るとも(雨が降ったとしても

 そう詠んで外を見やっていると、大和に住む男がやっと「行くよ」と言ってきた。女は喜んで待つのに、たびたび男は来ないまま時が過ぎてしまったので、女は、

  君来むと(あなたが来ると

  いひし夜ごと(約束した夜がいく夜か

  過ぎぬれば(訪れのないまま過ぎてしまいました

  頼まぬものの(だからもう頼りにはしませんが

  恋ひつつぞふる(恋しく思って暮らしていますよ

 と言った。しかし男は河内へは通わなくなってしまったのだった。

 大体直訳、逐語訳なんですけど、伝わるように訳せているか自信がありません。

 教科書に載っているので、訳さなくても大体読めるような気がしてしまうというか、「わかったふう」に目がすべってしまうのです。

 幼なじみ同士で人生をともにすることにして、しかし経済的に難しいことになってきたので、男が別のところに縁づいた。だが新しいところとは縁が続かなかったという話です。

 在原業平からは少し離れて、「田舎わたらひしける人(田舎を渡り歩いて生計を立てていた人)」の話です。話が進んでくると田舎といってもそこは「大和」であることがわかります。また、大和から親たちが越したような気配もないので、この「田舎わたらひ」していた人の仕事は行商のようなものではなく、都と関係する下級の役人か、都人の所領を管理する仕事かなんかで、都とまったく無関係というわけでもない感じです。「男」はその子どもで、大和(奈良)と河内(大阪)で生駒山を挟んで行ったり来たりしているのですね。こっちはなにか売って暮らしているのかなあ? それともやはり役人仕事?

 大和の女が「君ならずして/たれか(髪を)あぐべき」と詠む歌に詠みこまれている「髪上げ」は女子の成人の儀で、これをしたら「この人は結婚できます」ということになります。結婚相手が決まってから行う場合もあります。映画「かぐや姫の物語」に、かぐや姫の裳着・髪上げのあと、翁が宮中に仕える男達を呼んで盛大に管弦の遊びをする場面があります。かぐや姫は遊ぶ男達の姿を御簾の陰から見て恐怖をおぼえます。富豪であった翁が「我が家にはいつでも結婚できる娘がいますよ」と役人たちに披露して接待しているわけですから、かぐや姫の恐怖も当然です。「筒井筒」の女の場合は元から意中の幼なじみがいて、親がもってくる縁談に承知せず待っていた状態なので、髪上げをして、あなたと結婚しますということを「君ならずして/たれか(髪を)あぐべき」と歌ったわけです。

 二人はこのように歌のやりとりを重ねて合意を形成し、ついに「本意のごとく(望んでいた通り)」なります。

 この頃は男が女の家に通う通い婚が標準で、その男女の面倒を見るのは女の家側です。その両親がなくなって、経済的に困ったことになった。それでこのままじゃどうしようもないからと、男は生駒山地のたつた山を越えて河内の国に縁づいてしまった。女が「あのたつた山をあなたは夜半に越えているのだろう、大丈夫なのかな」とひとりごちるのはもっともな話で、そこは古来より盗賊が出る物騒な山として有名でした。

 また、男が自分は別の女のところに行っといて、最初の女が平気そうにしているのを見て「ほかの男を通わせているのでは」と思ってのぞき見するという得手勝手なくだりですが、この頃は男が女のもとに通い、それが女の家や親類に認められるような関係になったとしても、書類を届け出したり、浮気した場合はどうするかといった契約をするわけでもないので、人妻が他の男性を通わせることもありました。そういう状況ではあるんですけど、ま、やっぱり「そういうのイヤだな」とは思うんですね、お互いに。

 この話、すっごく変わっていて、自分だったらどう授業したらいいかちょっとわからない話なのでいつも扱いに困っているのですけど……。

 多分、元の話は井戸のまわりで一緒に遊んでいた二人が、その井戸よりも大きくなって結婚しました、というところで終わっていて、あとはのちのち付け加わえていった部分なんだろうと思います。これが「たつた山」の話で終わっているバージョンなんかもあったんじゃないでしょうか。あとの、河内の話の接続の仕方はちょっとぎくしゃくしています。「河内へもいかずなりにけり」と言っといて「まれまれかの高安に来てみれば」とすぐ始まるので、読んでいて「どっちなんだよ」と思いますし、なんかその後の「(河内の女が)手づから飯匙(いひがひ)とりて、笥子(けこ)のうつは物に盛りけるを見て」いやになったっていうくだりが唐突。「田舎わたらひしける人の子ども」の話だったはずなのに、使用人にやらせず、自分でやっているのを見てなんかイヤになってしまっているこの人の意識は貴族的で、急に階級が上がって、変。「設定を活かせていない」ということなのか、書き手がそういう常識のなかに生きていたという程度のことなのかわかりません。自分の方から行っといてその後贈答が成立しないのとか、高安の女が気の毒でもある。ちょっとぼーっとした感じの大和の女(こっちは付き合いが長いので、ああいう状況でああいうことを言い出してもそんなにおかしなことではないのですが)に比べて「通うの通わないの、どっち?」と自分でケリをつけようとしているので、まあ、大丈夫な人なんだとは思うんですけど。

 この話はなんだって一体、こんなに人気があるんでしょう。

 わかんないからなのかなあ。読んだあと、みんなで「ちょっと、これ、どう思う?」と昔の人も話し合ったんですかね。

 平安初期から見て「ちょっと前」感、平城京の雰囲気があるのがいいのかなあ。そういうこともあるかもしれないなあ。

 「大和物語」に同工の話があるんですけど、そっちは下品一直線なのです。「大和」は全体に下世話すぎるので確かに教材にしづらい。それに比べると「伊勢物語」の方は空白が多いだけに、なんとも言えない頼りなさがあって、それがおもしろいということなのかな。

くもりの山茶花

雨降りの山茶花

雨に降られたネモフィラ

ついに頼りないことになってきたラナンキュラス

🗻 突然ですが、力尽きました 🍚