プール雨

幽霊について

四方田犬彦『子供は悪いのが好き』

読書メモ。

わたしにはこの(カメラに向かって卵を投げつけるという - 引用注)ペドロの一瞬の行為が、映画撮影をめぐる被写体の側からの抗議と拒否の姿勢を物語っているように思えてならない。富める者が良識と憐憫の眼差しのもとに、貧しく悲惨な者たちから映像を盗み取ることで、これまでどれだけ傲慢な啓蒙映画が制作されてきたことか。だがそのとき、被写体となった者たちは何を獲得することができるのか。彼らがもし、第三者にみずからを媒体として語られたくない、表象されたくないと望んでいたとすれば。もし忘れられた人々が、本当に忘れられたままにしてほしいと希望するならば。

四方田犬彦『子供は悪いのが好き』光村図書 p.78 より)

  観察者が自らの固有名と姿、どのような歴史性を背負った主体なのかを極力明らかにして映されるものの責任を取ることでしか許されない行為が観察である、という思想。

(伯父の遺したフィルムに映っている映像を通して - 引用注)わたしは母親が他者であるという、誰もが受け入れがたく思っている事実に、思いがけず直面を強いられたといえる。おそらくこの居心地の悪さが解決されるとしたら、それはいずれ来るであろう母親の死のときだろう。母親が一個の凡庸な死体に還元されてゆくのを見るとき、わたしはいくばくかの逡巡の末に、彼女を他者として、向こう側に逝ってしまった存在として受け入れるだろう。子供であるということはひょっとして、この二つの体験の間に居心地悪く宙吊りにされていることの別名なのかもしれない。

四方田犬彦『子供は悪いのが好き』光村図書 p.204 より)

 他者と出会うことの難しさの最大の障壁は自身の視線だろう。自分の視線を意識するレッスンを積む過程、それが子ども時代なのかも。