プール雨

幽霊について

昨日は国際男性デーでした

 今年の国際男性デーは Globe の田中俊之へのインタビューを始めとして、男性とケアの問題があちこちで語られる一日となっていました。

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 「1970 年代に生まれた、今の 40、50 代の人たち」が想像していた「例えば男性であれば、30 代である程度の経済力をつけて結婚して、妻と子どもを養って、ローンを組みながら家を買って、車を買って…そんな暮らし」は、就職氷河期世代でもあるこの世代の多くにとっては到底手に入るものではありませんでした。

「普通の暮らしってこうだよね」という、子どものころ信じていたものに全然手が届かなくて、苦しんでいる男性はかなりいるだろうなと思います。もちろん、今となっては男が大黒柱となって一人で家族を養っていく時代でもないし、結婚しなくたって生きていけるんだからということなんでしょうが、やっぱり 20 代ごろまでに形成された価値観は捨てきれるものではなく、尾を引いていると思います。「普通にも手が届かない俺」みたいな劣等感を抱いている男性はかなりいるんじゃないかと思います。(「国際男性デーに考えたい男性の悩みや葛藤、田中俊之准教授『体は雑に扱われてきた』」より。以下同)

 この世代の多くは母親が仕事をもっている、もっていないにかかわらず、育児を含めて家事を一手に引き受けるのは母親で、子ども達はそれを当たり前のこととして受けとめている父親を見て育ちました。そこには「女性は男性のケアを(無償で)するのが仕事」という性役割分担の思想が横たわっています。もし、ある男性がその思想に疑問をもたずに成長すれば、その時点で、家庭の中で自らがケアする主体となる道は閉ざされてしまいます。

 母親ばかりが家事をする姿に違和感を抱き、母といっしょになってケアを学ぶ男性もいたでしょうが、そういうケースはまれだったのではないでしょうか(連れ合いの雨夫さんはそういう男性で、20 代の頃にはすでに人の世話をし、自分の面倒を見、相手と自分の身心に配慮する人として生きていました。そういう彼のことを、まわりは変人として見ていましたが、私にとっては貴重な、何でも相談できる友人でした)。

 男性は「女性からケアされる存在」として育つことが多いため、主体的に自分の面倒を見る、健康管理をするといった姿勢をもたずに成人することが多いようです。男性の身体は対象として、または問題として無視されているというか、透明なものとして扱われ、ケアをしてくれる女性がみつかるまでは、母親以外誰からも面倒を見てもらえず、自分自身からすらも雑に扱われます。田中俊之はケアすること自体、配慮すること自体から男性の身体が遠ざかっていることが、ジャニーズ事務所の児童労働、児童性虐待の問題を大きくした一因ではないかと指摘します。

さっきトイレの話をしましたけど、僕がすごく苦手なのは、新幹線にある、男性用のおしっこをするトイレです。鍵がかからない上に、外から小窓で見えるようになっていて。僕は何回か開けられた経験があって、すごく嫌な思いをしました。なぜこういう点に注目する必要があるのかと言えば、やはりジャニー喜多川氏の性暴力問題みたいなことがあったときに、これまでだと僕らはちょっと茶化して見てしまった面あがあるのではないかと思うんですね。男性の体も大切にされるべきだと、僕らがもっと考えていたなら、もっと早い段階で何か対応できたのではないかなと。結局そうはならず、その後も被害者がどんどん増えてしまったわけですから。

 そして、女性を「無償でケアする存在」と思い込んでいる男性が結婚すると、家庭の中に社会の不平等をそのまま持ち込むことになってしまいます。家庭が小さな社会になり、この差別的で残酷な社会の価値観を小さな家の中で演じることになります。そうすると、家庭はのんびりしたり休んだりする場からはどんどん遠ざかっていきます。そうならないためには、社会はともかく、家庭の中でだけは平等を実現するよう努力するのが大事だと田中俊之は提案しています。

そういうこと(=社会の不平等、性差別的な構造)をいったん持ち込まないで、まずは家庭のことだけを考えて、家事と育児の分担を考えるとどうなるかと考えてみると。もちろん、家庭の外には矛盾があるわけだから、それでもうまくいくとは限らない。でもそのときに、夫や妻、男性や女性といった個人のせいにするのではなく、我が家ではフェアにやろうとしているけど、できないのは社会がおかしいんだと考えることが重要だと思います。

 男は外で仕事、女は中で家事育児、男はケアされるいきもの、女はケアするいきものといった「常識=性差別」を家の中にはもちこまない。ここでは結婚したら、という前提で話が進んでいるので「家庭」という言葉が用いられていますが、まずは一対一の人間同士、固有名をもった、私とあなたでどうやったらやっていけるか、という発想で関係性を紡いでいけば、社会の不平等から自分たちを遠ざけることができます。そのとき、安全地帯をひとつ、つくれたことになります。その安全地帯から見てみれば、社会はおかしなことで溢れている。そういう話ができる二人になる。あるいは三人に、四人になっていける。

 そんな充実したインタビューを読みながら、昨日はせっせと「私の好きな高橋幸宏」というプレイリストをトリートメントしていました。

 高橋幸宏は「男において」という曲で、男であることをやめられたら君といるくらい幸せだろうと歌いました。

 「『男であること』なんかやめて、『私』になって、そして『君』といたらいいじゃん」と聴いていると気の毒に思うわけなんですが、そうこうしてるうちに「死んで、犬に生まれ変われたら、人を好きになっても幸せでいられるかな」とか歌い出してしまって、だいぶしょんぼりしました(「犬になれたら」)。でもそこで作家として終わりじゃなかったので、ほんとによかったです。

 とにかく。

 型の方にに自分たちを合わせようとするとお互いを見失ってしまって、『(500)日のサマー』みたいな悲しいことになってしまうので、自分自身とあなた自身をいつも見失わないように、やっていきたいです。

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🏡 おわり 🎶