プール雨

幽霊について

映画秘宝の件で考えたこと ⑵

 映画秘宝を読んでいて、執筆陣がお互いに気を遣っているなと思うことがありました。気を遣っているというか、執筆陣同士の関係性が前提となっているなと感じることがありました。たとえば有名俳優の特殊なあだ名を何のことわりもなく書くとか、俳優の褒め言葉として「ブサイク」にこだわるとか、そんなところにです。

 これは自分もそうなんですけど、例えば夫との会話で二人でげらげら笑ったことをそのまま書いても本人達以外は意味不明ということはままあり、そんなのは SNS なんかだとお互い様なんですけど、それを雑誌の誌面でやられると気まずかったです。

 もう少しはっきり書くと、女性の執筆者が男性の執筆者に気を遣っているなと思われる場面がたまにあって、「大丈夫かな」と思っていました。

 性差別の問題を扱うときに、そばにいる男性に気を遣ってしまって問題に切り込めないという場面はまた、 SNS なんかだと日常茶飯事で、書き言葉の外に出ればありふれた出来事です。

 国際女性デーには「男性の日もあればいいよね」と発言する女性がいて、その人に「ありますよ、男性の日」と応じたり、「いや、毎日が男性の日だから」と反発したり、そうしたことはもう枚挙にいとまがない。

 「男の人だって大変だよね」というのはもちろん事実で、女性が差別されていたら男性だって差別されているわけで、実際は身一つで働いて生きている人たちがまるごと差別されていて、そこに分断が持ち込まれ煽られ、維持されていて、分断を持ち込んだのはそこで日々利害を食い合っている、そういう状況に追い込まれている当の「女」でも、当の「男」でもないわけですよね。

 そういうときに、みんな大変だって言い合って、もう我慢するのよそうって話になるならいいけど、「男の人だって大変だから女もがまんしなきゃ」みたいなことになってくると、なんで人の頭を踏みつける側の視点に立つんですか、あなたも踏まれて傷ついているくせに、と腹が立つ。

 腹は立つけれど、何より心配になる。この人、こんな書き方していて大丈夫かな、映画、楽しくないんじゃないかなと勝手に心配してました。 

 以前はてなに「はてなハイク」というお絵かきもできる SNS のサービスがあって、それをいつからともなく利用していました。それがサービス終了になったとき、はてなさんが書き込みデータをファイルにまとめて下さったのです。それで、数年にわたる自分の「おはよう」から「おやすみ」までを延々読む機会が生じました。別に読まなくてもよかったのですが、どうしてもこのブログにそれを流し込んで体裁を整えたいという気持ちでせっせと読んでいました。そのときに、途中で文体がくずれちゃってるなということに気付きました。実際にオフ会などで人びとと交流し、友だちもできて、という段階になるとがくっと文章がわかりにくくなっていました。そこでの人間関係を前提として書いていたせいというのもあったのですが、何より、実際の知り合いや友人に気を遣ってしまってわかりにくくしてしまっていた部分が大きかったです。「ここでは重いことを書かないで」というような要請が度々あって、あえて軽く振る舞ってしまっていました。でも、自分はそもそもそれほど軽やかではない……というか、重さを隠しても単に不気味になるだけでいいことはなかったのです。

 「重さ」をもう少し明確に言い換えると「文脈」や「歴史」ということになるのだと思います。平素 SNS で「交流」を求めている場合にはその文脈は(かっこ)にくくっておいといて、一番見栄えのいい自分を出すことになるんだと思うしそれが求められてもいるのですが、やはり、一人ひとり言動には文脈がありますから、ずっとそれを隠しているともめごとの原因になりすらするし、最終的に不気味になる。

 はてなハイクで私が好んで書き込みを読んでいた方々はわりとそうではなかったです。一つ一つの書き込みがしっかりしていて、重く、「私には私の文脈がある」という主張があって、よくその書き方を参考にしていました。

 一度くずれた自分の文体を直すには時間がかかりました。今でもこのブログの一番最初の記事が自分では好きなのですが、あそこに戻っていけるまで、色々と気をつけて書いていました。

 一番気をつけたのは結局、私はこの世でたった一人、という当然のことです。一人の私が文章を書いて、一人で読んでいるあなたに宛てているのだから、私は私の来し方と今をひとつひとつ積み重ねていくしかないということです。

 うーん、やっぱりうまく書けない。

 真魚八重子というライターが好きで本を何冊か買って読んでいるんですけど、秘宝の対談なんか読んでずっと「大丈夫かな」って思ってたんです。大丈夫じゃないみたい。どうか休養をうまく取って、自分の文体を取り戻していってほしいです。

 →大きなお世話でした。

 以下、2024 年 2 月 2 日の追記。

 実は、考えていたことはもっと厳しいことで。

 「この人の言う『私はフェミニストだ』って、『私は女だ』って意味なのでは」ということを一部の書き手に感じることがあって、そのことがずっとひっかかっていたのです。「自分は(真の)女性だから(真の)フェミニストである」というスタンスを取る方がたまにおられ、そのスタンスが傍で見ていてずっともどかしかったのですが、ちょっともう、「もどかしい」とかそういうお茶の濁し方はよくないなと思うようになりました。

 自分が女性であるということはフェミニズムのスタート地点にはなりえても、根拠にはならない。「私は女性だ。したがってフェミニストだ」というところから始まる思考では、性差別の問題は論じきれない。暴力の問題は確かに記述するのが難しいが、それは権力の構造と切り離せないからで、フェミニストならばそこにこそ挑戦してほしいが、「私は女性だ」をスタート地点にする考え方では、そもそも学ぶ必要性がないので、そこに触れられない。「私は女性だ」で始まると、そこが結論になってしまって、考えられる範囲が極度に小さくなる。

 全体主義に抵抗すること、乗り越えること、それらをたくらむことの営みすべてにフェミニズムは宿る。全体主義は、生まれること、生きること、学ぶこと、働くこと、愛すること、産むこと、病むこと、死ぬこと、それらすべてを支配しようとする。命にかかわることすべてを全体主義から解放しなければならない。フェミニズムはそういう場所でずっと戦ってきたし、今もその過程の中にいる。だから、フェミニストになっていく過程は男性でも女性でも、そのどちらでもなくても、どんな性自認のもとでも経験可能だ。「私は女性だから○○に対して意見を言う資格をもつ」といった態度は、そうした過程とは縁がない。フェミニズム研究の歴史を軽視ないし敵視し、自分の手にしている権力の自覚につとめず、多様な性は事実であると認められないなら、関係がないのだ。

 『映画秘宝』という雑誌が再々創刊するそうだ。似たような教養、似たような思想をもつ者同士で集まり、楽しく過ごすことを私は否定しない。そういう空間は楽しいだろうと思う。それを傍から見るのも楽しい。でも、差別というものについて、暴力というものについて、そこにある権力の差、権威勾配について有力雑誌が考えぬけないとき、そのこと自体が加害の可能性をもってしまう。映画館主や映画監督、著名な評論家の暴力を矮小化または隠蔽することに雑誌が影響力を全くもたずにいるのは難しい。「純粋に楽しむ」なんて異論を無視しなければできないし、そのときに告発をにぎりつぶすような過程を生むかもしれない。

 どうなるかはわからないけど、私の想像や不安をけちらしてくれるような運動が起きたときには諸手をあげて喜びます。もちろん。そのときはね。

📚 おわり 📚