プール雨

幽霊について

映画秘宝の件で考えたこと ⑴

 映画秘宝を含めて、炎上のきっかけが「読んでいない本に対する批判」または「読んでいない本への感想に対する批判」だった、というのを度々目にしている。

 加害と呼ぶしかない行為に及んだのはいずれも「(相手が)読んでない本の著者」「本を読んで感想を書いた側」だった。

 読んですらいないのに何か言ってきた相手に腹を立てた作家や読者が、その怒りを直接ぶつけてしまったことに端を発したトラブルだった。

 それでいずれもこの最初の「読んでない」は不問に付されるのが私にとってはかなりの驚きでした。

 もちろん公共の場で人を悪し様に罵るのがいけないし、立場の違いがあれば構造的には脅迫が成立することだってあるわけだから、腕を振り上げてしまった人は自分(たち)が何をしたか明確に認識するべき。

 それは一旦わきにおいて今考えたいのは「読んでない本や見ていない映画について批判(?)する」という行為が、読んだ側、見た側からすると非道に見えてしまうということです。

 あらかじめ言っておくと、私は読まずに書いたり、見ずに書いたりする行為は嫌いです。この点は変わらないと思う。でも「読んでから書け」「見てから言え」とも思わない。タイトルやスタッフの並びを見て何かもやもやとした気持ちが沸き起こり、一言言いたくなってしまうことはあると思う。見るつもりの人が見る前にそのもやもやを吐露しておきたい、整理しておきたいと思って書くことだってあるだろう。あるいは「どうしても見られない」ということは十分書くテーマになりうる。私だってひろゆきやロン・ワトキンスが絡んでいると知れば絶対に読まないし見ないし、読まないこと自体を推す。そのとき、読んだ人からすれば「読まないで言うなんて!」と怒りが沸き起こるのも当然だとは思うが、しかし意志をもって読まないという事態もありうる。

 そういう意志的な選択にとどまらず、読まない、見ないという事態に至る事情なんて、いくらでもある。映画は映画館がなければ見られないし、本は書店や図書館がなければ読めない。ネット環境が誰にとっても手軽かというとそうでもない場合もある。情報を取捨選択するのは一苦労で、そこにさける労力がないことだってある。

 私もこのパンデミックのさなか、見られなかった映画はたくさんあるし、見なかった映画もある。目に入ること自体を意図的にさけた本や映画だってある。そのことを逐一全部は書かないです。毎日、意志をもって読まない・見ない・聞かないようにしているもの、事情で読めない・見られない・聞けないものはた〜くさんあって、それをいちいち書き留めていたらそれだけで日が暮れるので不毛すぎるし悲しすぎる。

 それにさすがに失礼だろうと思う。読みもせず、見もせず何か言うのはそれダメ絶対、と思う。

 ダメ絶対と思うのはやっぱり自分が本の周辺にいるせいなんだろう。私はやっぱり何かをつくる人たちのことをどこかで尊敬してしまっているのだと思う。それに、人間が想像・創造したもの、その、もの自体にも敬意の念がある。

 でも、それらを見もせずに否定し、それを表明することをダメ絶対と、多くの人は思わないみたいだ。

 この温度差がトラブルの根っこにある場合はやはりダメ絶対と思う側が歩み寄るしかない。そこを自覚せず「読んでから言え」では通じない。相手が読みもせず、見もせず何か言って、あなたがそのこと自体にかっとなっていたとしても、相手には読めない事情や見られない理由があるかもしれない。そこを「自分は書いた/読んだ/見た人間だから」の一点張りで「まず読め」とか言うのは、まあ、よくない。

 

🎦 おわり 📚