プール雨

幽霊について

2019 → 2020

年末年始でした。

あわただしかったですねえ。

あわわ、あわわ、あわわとしているうちにもう 1 月 5 日です。

あけましておめでとうございます。

2019 年最後に映画館で見た映画

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を拝見しました。テアトル新宿では「江波のたんぽぽ(をイメージした)紅茶」などの特別メニューもあり、展示も凝っていて、始まる前から楽しかったです。

この世界の片隅に』よりも、個々の登場人物達にフォーカスが合っていたので、全体を鳥瞰していたカメラが降りてきた感じがしました。個人的にはすずの「うちはぼーっとしとるけえ」という認識の意味が、前作よりはっきり伝わってきて、ひたすら痛ましく感じました。目の前のことを受け容れて、にこにここつこつとがんばって生きてきたのに、気づいたらおそろしいことに出くわしていたすずの、「何も知らんまま死にたかった」という叫びが目の前で響きました。

戦後の描写に戦中との連続性も感じられて、ということは、現在との連続性もあって、ほんとにタイトル通りの映画だと思います。

おすすめです!

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久しぶりのテアトル新宿でした

2019 年最後に読んだ本

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ゆっくり読みました

ヘイト本が書店の入り口に近いところにずらっと並んでいるのが嫌で、そのせいで行かなくなった書店があります。私はその書店でカードをつくり、ポイントをため、新刊を買うときは必ずそこを利用するようにしていましたし、待ち合わせなどでもよく利用していました。でも、表玄関の真ん前で積み上げられた、憎悪を煽り、対立を生み、排除と暴力を誘発する本の群れに、あるときふっと心底うんざりしてしまいました。

そうした憎悪本、差別本はセレクト書店でない限りはどんなところでも置かれていて、それこそ駅の売店やコンビニでだって売られているわけで、そういう状況に関しては常日頃、こう考えてきました。書店では取り次ぎからまわされる本を並べているだけで、仮に店長や店員の意志で返品という判断ができたとしても焼け石に水であり、責任があるのは出版側だろうと。そして、個々の編集者は忸怩たる思いがありながらも会社の経営や自分の生活のために作るという判断を、やむなくしているのだろうと。もちろん、仮にそれが事実だとしても、この社会に住む、この街を歩く人々のなかのだれかに恐怖をおぼえさせ、萎縮させ、傷つける差別本を出版するのは、人間として一線を越えた行為です。「やむなく」だろうと何だろうと単純に「やっていいことか」と考えたらやってはいけないことです。

でも、少なくとも、出版にかかわる人ならそのこと、その行為がこの社会のなかで生きる、ある人びとに対しては「ここにお前の生きる場所はない」というメッセージになり、別の人びとには排除と暴力に加担させることになると自覚してはいるだろうと思っていました。

永江朗の粘り強い取材に基づいたこの労作によって、そうですらなかったことがわかり、かなり驚きましたし、ショックを受けました。

出版にかかわる人が差別や暴力、そして公共性に関してさほど関心をもたないまま、差別本を「仕事だから」と割り切ってつくり、広告宣伝し、営業する。書店では「とりあえずそれを店頭に並べる」。

ネトウヨ」や「在特会」あるいは「日本会議」といった、国内に選別と排除の機運を生み出すこと自体を目的として活動している人々が中心となって、そうした出版活動をし、また読み、広めているというイメージだったのですが、そうした、はっきりとした目的意識のある人々はヘイト本の主だった作り手でもなければ読者でもなく、実は、かなり「ふつう」の人が仕事として割り切って作り、流通させ、販売し、手に取り購買している、という実態があったのですね。

私が漠然と抱いていたこの社会に対する安心感や信頼感は、もはやほとんど根拠がないのだなあと思いました。

 いま、欧米のイスラム教徒や中東出身者が「自分もテロリストと混同されてひどい目に遭うのではないか」と怯えるように、あるいは、KKK の亡霊に怯えるアフリカ系アメリカ人たちのように、在日コリアンは不安な日々をすごしている。自分や家族が傷つけられるのではないかと。幼い子供をもった人は胸がつぶれる思いだろう。「ナチスがやったことは許せませんね」「KKK は狂っている」と言う人が、同じ口で「在日特権は許せません」と語る世界にわたしたちは生きている。嫌韓反中本ブームを見ていて、「ああ、ナチのユダヤ人虐殺って、こんなふうに広がっていったんだな」と思う。こんなふうにして関東大震災の直後の東京では朝鮮人虐殺が起きた。いま、また大震災が起こったら殺されるのは、わたしかもしれない。

 在日コリアンの人びとが安心して暮らせないまちづくり(というのも奇妙な言い方だが)に、出版業界が加担している。

 (同書 p.176)

 この本では、こうした、すでに相当程度進んでしまった事態に対して、ささやかではあるけれども、抵抗となりうる提言がなされています。納得できるし、それならいますぐできそうだし、そうしなきゃいけないと思うようなことです。

ぜひ、みなさんにご一読いただきたい、重要な本です。

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

  • 作者:永江朗
  • 出版社/メーカー: 太郎次郎社エディタス
  • 発売日: 2019/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 この本に限らず、2019 年は「最悪のことはとっくに起こってしまい、わたしたちはそのただ中にいる」と思うような読書体験や事件が続きました。子どものころから、様々なことがらについて「このままだと大変なことになる」と聞かされてきて、ずっと頭の隅でそう考えてきましたが、今思うとほんとにのんきな話で、「大変なこと」はもう目の前で起きているし、自分も日々差別や暴力に加担させられているんだと思います。そこで、もうおわった! などと言ってさらにしっちゃかめっちゃかにするのではなく、『私は本屋が好きでした』のように、もはや片付けられないかもしれないことにも、こつこつ臨んでいくには相当の強さが必要です。粘り強さや根気、ストイックさ、そして創造性など。そうしたものを維持していくには、突然ですが、やっぱり友だちが必要なんだろうなあ。

猫まみれの帰省

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猫には日向が似合う

両親のお城には猫がお三方おられまして、この方々が、まあ、かわいい。帰省の間中、「(窓を)開けよ」と言われればいそいそと開け、「閉めよ」と言われれば閉め、「背中の辺りをなでてたもれ」と言われれば喜んでなで、「今度は腹」と言われればもちろんいいなりになり、膝に座られ動けなくなり足がしびれてもがまんしているという、僕活動にいそしみました。

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お正月の海

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天気のよいお正月でした

2020 年最初に読んだ本

年初から重い本はきついので、一冊目は野村剛史『話し言葉の日本史』にしました。

たまに日本語史の通史を読むようにしています。たまに読んで、「いろんなことがらについていろんな説がある」と思い出しておかないと、うっかり、思い切ったことを断言してしまいそうになるからです。

また、漢文もふくめて、日本語の古語はもうすこし自由に読めていたいなと日頃思っており、なぜそのように思うかと言いますと、ひとつにはその方が便利だからで、もうひとつには、時々、ものごとの捉え方のチャンネルのようなものを切り替えられたらおもしろいだろうなと思うからです。

 こう考えると、古代語のような助動詞を持つ言語と、それを持たない現代日本語や中世末期の日本語では、ことがらの見え方が大いに異なっているのではないか、という見とおしを持つことができる。(中略)つまり、同じ過去でも古代には二とおりの過去があるけれど、現代では(おそらく中世でも)一とおりの過去の捉え方しかないということになる(引用注:話し手の体験にもとづく「ありき」と、説話的伝承的に語る「ありけり」とではことがらの捉え方が違うが、現代語ではどちらも「あった」になってしまうということ)。(中略)このように日本語話者といっても、現代人と古代人はことがらに対する感覚が違うということになるわけである。しかも、助動詞的な表現は言語の基層に属するのだから、この異なりは基層的な感覚の違いということになる。助動詞的表現の変遷は、このような基層的な感覚の変遷である。当然のことながら、このような違いは、現代世界の種々の言語同士についてもあてはまるだろう。

(同書、p.72-73)

 たとえば「思ほゆ」の「ゆ」のような助動詞は現代日本語にはなく、そうすると、自然とその方向に気持ちが向く、いつの間にかその構造の中に置かれている、というようなことを短く表現する言葉がないというだけでなく、平素、そのような考え方をしないということになります。ひとつ、チャンネルをうしなっているわけですね。そういうことを考えるのはおもしろいです。

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楽しい本でした

おすすめです!

話し言葉の日本史 (歴史文化ライブラリー)

話し言葉の日本史 (歴史文化ライブラリー)

 

2020 年最初に見た映画

www.cinemaclassics.jp

 年明け、『男はつらいよ お帰り 寅さん』を拝見しました。

山田洋次の映画では、登場人物はみな口語ではありますが、書き言葉で話します。接続詞や副詞を省略せず、もちろん主語は明確にし、句点まできっちり発音したのち、別の人物が話し出します。相手の言葉を最後まで聞かず、そこに自分の言葉を重ねてしまうような人物は登場しません。

また、話者は、相手の顔色を見て途中で言葉を変えることなく、きちっと最後まで言い切ります。

ですから山田洋次映画では冒頭数分の違和感が大きく、それに慣れると今度は不思議な心地よさを感じるようになります。

今回のヒロイン、後藤久美子は、国連の職員で、ふだんはオランダに住んでいます。彼女がこの山田洋次文体で長い台詞を言うと、帰国子女っぽい感じの音色になり、そのきらきらした黒い瞳とあいまって、とってもすてきでした。

映画自体は、「とらさんがいない世界」を宣言するところから始まり、甥っ子の満男が「今、ここにおじさんがいたら」と考えながら日々を暮らす姿を追います。そこに高校時代の恋人だった泉が帰ってきて、満男の時間が一気にまき戻ります。

でも、寅さんがそこで神格化されて、寅さんのいない世界が味気ないというわけではないのが、よかったです。寅さんは欠点だらけの人だった。でもリリーも満男も、そんな寅さんが好きだった。寅さんがいなくてさみしい。そのことだけに徹した上品さがよかったです。

おすすめです!

ほかに、お正月はテレビで『風とともに去りぬ』を数十年ぶりに拝見しまして、スカーレットとメラニーの連帯/共犯関係がおもしろいなと思いました。南北戦争末期の、メラニーの出産の一件がなければ、二人にはもっと健全な友情が育ったかもしれないなあと思いつつ、しかし、メラニーのダンナのふらふら具合よ……と楽しみました。

というわけで、日常にもどって参りました。

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いつもどおり