プール雨

幽霊について

牧野智和『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳・片付け』を読みました〜ファイナル〜

〜前回までのあらすじ〜

 90 年代に大学生だった私はすぐ隣に「カルトの勧誘」と「スピリチュアル」と「自己啓発セミナー」がある生活をしていました。田舎出身で、これら三つの区別がついていなかった私は、そのどれとも距離を取れるように気をつけていました。「先輩が○○に入信していなくなった」「セミナーに○万円つぎ込んでしまった」「ドアの外に白装束の人がいて表に出られない」といった話題に事欠かない環境で、友人から自己啓発セミナーに誘われると傷ついたものです。「そっちに行ってしまうんだな、私を置いて」と。でも「そっち」を明確に言語化できないまま時は流れ何十年もたち、はっと気がつくとテレビから流れてくる言葉も、ヘタすると映画館で耳にする言葉も全体に自己啓発文体寄りになっていました。

 自助本とも呼ばれる自己啓発書はその名の通り、自らの意志でその能力を高めることを支援するものです。この指向を「自己を高めて今より高い段階に上昇することを目指すこと」と説明すると、スピリチュアリティとの近さがはっきりするかもしれません。ビジネスの現場で取り入られることが多く、私も会社勤め時代にはある啓発書を読まされました。そのときの感想は

 「まったく頭に入ってこない」

 というものでした。数年後、同じ部署に配属になった同僚がやはり会社から指示された自己啓発書を前に困惑していましたので、「読んでも、頭に入ってこないことない?」と声をかけると同僚はぱっと目を輝かせ、「そうなんですよ! これは、なんですか……?」と言いました。私たちは「一文一文の意味はわかるけど論理的な繫がりがわからない」「箇条書きの項目が多く、まとまりのある文章として認識しづらい」「文字が大きいのも気が散る」などの点で見解が一致していることを確かめ、「目次、序文、後書きだけ読んで『自分はこの書にあったこれこれこういう点について大いに気付かされるものがあった』形式でまとめてさっさと報告し、仕事にもどろう」と励ましあいました。

 これはなかなか言葉にしがたい、そして受け入れがたい苦痛の記憶です。業務に対して人手が圧倒的に足らず、連日終電で帰っていた私たちにとって、なにかスローガンのようなものが並んでいるだけの本を渡され、それを読んで感想を報告するようにという社長からの指示はどっと疲労を高める、気味の悪いものでした。

 今、振り向いてみると、あのとき、社長肝いりの自己啓発書をさくさく読み、さらさらとレポートし、嬉々として会議の冒頭でそれを発表した社員はいなかったように思います。みんな、顔に「なんでクソ忙しいのにこんなものを読まねばならぬのだ」と太いゴチック体で書いてありました。さらに言うと「こんなの、テキトーにすませちゃえばいいんですよ〜」と軽いノリで受け流すような人もおらず、社長以下えらい人たちが、その本一発で社員の姿勢が変わり自己研鑽に努めるようになり社の業績がばんばん上がると期待しているらしいことを一同重く受けとめ、会社を辞める準備を始める人すら出たほどです。

 企業研修などで活用されることが多い自己啓発書ですが、『日常に侵入する自己啓発』を読むと、日常的に読んでいる読者の多くは、「繰り返し読んで感想をまとめ発表する」といった積極的な姿勢ではなく、もっと軽く、読めるところだけ、興味がもてるところだけ読んで、取り入れられるところは取り入れ、そうでないところは華麗にながすという、確認的な読み方をしているようです。

 そうだろうと思うんですよね。

 前出の会社は教育関連だったので、社員は大体日常的に仕事上でもプライベートでも何か読んでいて、「読む」という行為においてきわめて積極的な態度を取る習慣がついていたと思います。そのため皆、課題の自己啓発書もぐいぐい読んでしまい、「意味わかんねー!!」と頭を抱える事態になったのでしょう。

 今も昔も変わらず、自己啓発書の何がよくわからないかと言うと、この「自己」の二文字です。自己啓発書で問題になるのはどこまでも「自己」です。そこでは「社会」すら問題にできないし、問題にするべきでないとされます。

 「見方次第で変わる」「すべては自分の考え方次第」と、実によく言われます。どれほど過酷な現実であろうと、自分の考え方次第で受け入れ可能になる、と繰り返し繰り返し語られてきました。本当でしょうか? 実際は受け入れる以外に選択肢がない(ように見える)とき、苦肉の策として、「すべては考え方次第」と嘯いているに過ぎないのではないでしょうか。

 事実や現実と「見方」「考え方」といった解釈の問題は別なはずで、自分が何をどう解釈しようと、それ以前に事実が厳然としてあるはずです。もちろん、解釈は大事です。見方も考え方も、それを意識することも。でもまず、事実を知らないことにはどうにもならないのでは? しかし、自己啓発書ではそうした、影響を自らコントロールできないものは考えの対象から排除しています。影響を自分ではコントロールできないもの、つまり、他者や過去、そして社会といった自己の外部にあるすべてのものです。自己啓発書では、これら外部にあるものは知ろうとするだけ無駄なのです。

自らがその影響をコントロールできるような解釈の枠組みを、眼前にひらける世界のあらゆる対象へと付与し、逆にそれでもコントロール不能なものはノイズとして排除する。だからこそ幾度か述べたように、「社会」は変えられないものとしてあっさりと思考停止の対象とされてしまうのである。自己啓発書が書店に居並び、その位置価を浮上させるような社会とは、このような感情的ハビトゥスが位置価を高め、また文化資本として流通するような社会だといえるのではないだろうか。(『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳・片付け』p.289より)

 ときにこの態度は、本来自分の責任ではないものを、「自己責任だ」と思いこまされる倒錯まで生み出しています。

仕事上で起こるあらゆる出来事は自らの責任に帰されるものだとする見解は、特に二〇一〇年代の著作において多く言及されるようになっている。(同 p.74 より)

一〇年代の「年代本」はかつてないほどに、個々人に仕事上のトラブルを帰責する方向へと傾いている。 (同 p.79 より)

 「仕事上で起こるあらゆる出来事」を「自らの責任に帰」す考え方は、ある意味で楽なのかもしれませんが、事実確認の前に「自己責任」の言葉が出てくるような考え方を成員が続けていては本来の責任の所在が曖昧になり、管理体制に問題が生じるようになるでしょう。

 『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳・片付け』には様々な啓発書が登場しますが、時期やモチーフが多少離れても生じる、「同じさ」には驚きました。

 この社会を生き生きと、少しでも自分らしく、楽しく生き抜くための指南書として自己啓発書やスピリチュアリティに関する本はあるのだと思います。

 しかし、変えられるのは自己だけというところからスタートしているため、話題は言葉遣い、立ち居振る舞い、メール返信のタイミング、メールの文体、寝起きする時間等々きわめて微細な事項に至り、それら微細な物事の間のちょっとした差異をもって成功と非成功を分け、格付けするような指向をもっていて、(引用された箇所のみを読んでいてさえ)息苦しいほどです。さらに、そこでは基本的にビジネスの用語が採用され、子どもが「投資対象」と呼ばれ、自身の「現在」もまた「未来への投資期間」と呼ばれてしまう貧しい「解釈」が行き交います。以前、知り合いのお子さんが大学に合格した際に、「でも私(母親)はこの子に投資した分をまだ全然返してもらっていない」と言ったのには驚きましたが、家庭内のことも「消費」と「投資」の用語で語るのは今や一般的なことになってしまったのでしょうか。子ども達がやたらと「感謝」と言うのはそうした状況も影響しているのでしょうか。

 啓発書は「自分自身の変革や肯定に自らを専心させようとする」ことで人びとを支えもしているようです。しかし同時に、本来ならその自己が参与し、他者とともに構築しているはずの社会を「忌まわしいものとして、あるいは関連のないものとして遠ざけてしまう」、そんな思考を提示してしまっているのではないか、そしてそのことと、依然として「社会」を考えようとすると「そんなことを考えても無駄」と(わりと強く)反応されてしまうような状況は相関しているのではないかと思います。

 うーん、以上です。

 

📚 おわり 📚