プール雨

幽霊について

牧野智和『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳・片付け』を読みました

 塚田穂高「『宗教の右傾化』はどこにあるのか 現代日本『宗教』の類型的把握から」(塚田穂高編『徹底検証 日本の右傾化』)に宗教社会学者、井門富士夫による日本宗教の四類型が紹介されています。

 これは社会における「見えやすさ」と新旧・公私にかかわる「エスタブリッシュ度」の二つの軸で宗教を考えるもので、単に「宗教的かそうでないか」に話が終始してしまいそうなとき、当該対象を社会から「見える/見えない」、社会制度に「組み込まれている/組み込まれていない」に注意して分析することを勧めています。

  • 社会から見えやすくかつすでに社会の制度に組み込まれている=既存の神道や仏教=「制度宗教」
  • 社会から見えやすいが社会制度に組み込まれているとはいえない=新宗教=「組織宗教」
  • 社会から宗教と意識されにくく、組織化されていないスピリチュアリティ=「個人宗教」
  • 社会から見えにくいが実は社会の価値観と結びついていてエスタブリッシュ度が高い=「文化宗教」

 この二つの軸で宗教を考えることで、「宗教」の語から意識されにくい「個人宗教」と「文化宗教」がよく見えるようになると思います。なお、「文化宗教」については次のように説明されています。

これは社会を文化的に特徴づけ、われわれの行動を奥深くから規定するような宗教性である。国民性、天皇観、皇室崇敬、習俗、先祖祭祀などを含む広がりを持つものであり、「市民宗教」との見方もある。 (塚田穂高「『宗教の右傾化』はどこにあるのか 現代日本『宗教』の類型的把握から」より)

 「宗教」という言葉を忌避し、宗教と聞くだけで警戒するような極端な態度を日本語圏の人が取りがちなのは、この「個人宗教」と「文化宗教」の水準があまりに「自然(内面化され)」すぎて、目に見える新宗教や制度宗教を「不自然」ととらえる傾向があるからなのかな、という気もしますが、ことはそれほど単純ではないのでしょう。

 宗教や信仰を警戒し一線を引こうとする、少なくとも話題として避けようとする人が多いこの社会で、日本の「霊性」、「宗教的独自性」などと言われると肯定的な態度になる人が少なくないことが私には不可解でした。それは、「個人宗教」「文化宗教」の水準が宗教として意識されにくく、かつ、社会の価値観や制度の中にしっかりと根を下ろしていることの現れなのでしょうか。多くの人びとがアニミズム、縄文、そして「日本人は宗教的に寛容」といったテーマには無批判になる傾向があり、また、パワースポット参りなど、宗教と意識せず宗教的な行動を取っています。

 「組織宗教」に分類される新宗教(の一部)の草の根活動が法整備にまで影響していることが明らかになった今、塚田穂高は「自身を『無宗教』と考えることが多いわれわれが『見えない』まま関わっている『個人宗教』からの連続性も踏まえた『文化宗教』のレベル」こそ向き合う必要があるといいます。

前掲の(NHK 文化研究所による)世論調査でも、「日本に生まれてよかった」97.3 %、「日本は一流*1だ」54.4 %、「日本の古い寺や民家をみると、非常に親しみを感じる」87.4 %、「日本人は、他の国に比べて、きわめてすぐれた素質をもっている」67.5 %などの結果が次々と目に入ってくる。

 自国・自民族の文化的独自性を表示する思想を「文化ナショナリズム」といい、日本人論・日本文化論として展開してきた。文化的アイデンティティの独自性や優越性を「文化論」の体裁で提供するこれらは、文化宗教の一角をなすと言ってよいだろう。 (塚田穂高「『宗教の右傾化』はどこにあるのか 現代日本『宗教』の類型的把握から」より)

 「異文化(周辺諸国文化や一神教文化)を排除したり見下したりしながら展開されている」、こうした「文化宗教」の層が宗教右派による煽動と結びついて実際の制度をゆがめていることはもはや誰の目にも明らかな事実でしょう。

 信者が漸減している新宗教の働きかけだけで、朝鮮学校の生徒さんたちへの嫌がらせや暴力、ウトロ地区への放火、またはリプロダクティブライツを毀損する医療行為などが起こっているわけではなく、それらを「しょうがない」と受け入れる社会の土壌があって、その価値観の広がりと新宗教が互いに影響し合い、結託したことで今のジェノサイド一歩手前の状態があるのだと思います。

 これら、個人宗教、文化宗教の「見えない宗教」を意識して対象化して、できれば距離を取っていく必要があるなあと思います。

 それで、遠回りのようではありますが、まず、牧野智和『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳・片付け』を読んでみました。

 自己啓発スピリチュアリティのお隣さんのようなもので、「制度宗教」や「組織宗教」で捕捉しきれない、身一つで生きていかなければならない私たちにとって鎧のような役割を果たしているのかなという感触があります。

 学生のころ、オウムや原理の勧誘も身近でしたが、そのすぐそばにあった自己啓発もやはり身近なものでした。私は生理的な水準で苦手だったし、偏見もあった(新興宗教団体がやっていると思い込んでいた)ので距離を取っていました。そのせいで、未だよくわかっていない部分があります。

 読んでまず意外だったのは、読者層です。今の今まで私は「自己啓発書を読んでいるのは誰か」ということについてまったくと言っていいほど、考えていませんでした。結論として、自己啓発書はある意味「みんな」が読んでいて、どちらかと言うと全然読まない人は少数派になるようです。「みんな」というのをもう少し統計に即して言うと大卒・正規雇用・体育会系寄りのミドルクラスで顕著に読まれているそうです。これは出版側の人物像とも一致します。正規雇用に従事するミドルクラスの書き手・編集者が同じ階層に向けてリリースしている。だから「啓発書購読は主に大卒正規雇用従事者に求められる『獲得的文化資本』という向きが強い」わけです。自己啓発書を読むことはミドルクラスのメインカルチャー、常識だったのですね。テレビも出版も自己啓発的な文体に覆われているなあと思っていたのですが、そもそも王道と言いますか、中心的なものだった。知らなかった!

 ……

 と、ここまで書いたら疲労が押し寄せてきたので、続きは明日にしたいと思います。

 突然ですが終わります。

おやすみなさい

📚 つづく 📚

*1:11 月 28 日、誤字を直しました。