プール雨

幽霊について

闘うジャーナリストを闘わない哲学者が笑っているのを見てとても辛い気持ちになった夜に私は考えた

 校閲の仕事をしています。出版物の内容に間違いがないか、特に、事実と違うことが書かれていないかの確認が主な業務です。主に学習用の教科書や参考書を扱っているので、仕事のときは大体辞書事典類をめくり続けています。

 時々、偏見に基づいた表現を含んだ原稿がまわってくることがあり、そうするとかなり大変です。何頁何行目から何行目までの表現は事実に反しています、とはっきりきっぱりと指摘できれば楽なのですが、大抵、偏見は当人に自覚がなく、その人の文章から特定の差別用語などをひっこぬいて他の表現に置き換えれば済むという性質のものではないからです。

 わかりやすい例で言うと、「女流」という言葉があります。「女流作家」といった言葉を使う人は、「作家は男性であることが標準的。女性ならばどうしてもそう明示する必要がある」と思い込んでいます。そしてそういう書き手は「女性のわりに論理的」とか「男性のわりに情緒的」などうっかり書いてしまったり、容姿を事細かに描写して脇道にそれてしまったりするのです。必要のないところでやたらと性別や容姿について触れると、性別や容姿がこの社会で学んで働いて生きていく上でとても重要なのだという誤った、もしくは、読者から活力を奪うようなメッセージを送ることにつながります。

 差別発言が問題だとされた政治家が、その後も類似の問題を繰り返すことがよくありますが、繰り返すのは何が問題かわからないからだと思います。「ようし、今から差別意識に基づいた差別表現で特定の属性にカテゴライズされるような人々を一斉に排除してやるぞ!」という自覚的な構えをもって生きている人はあまりいないわけで、当人は「ちょっと気の利いた、とがった発言をして皆を喜ばせよう」とか、「こういうことを言うとみんな喜ぶから」とか、そんなふんわりした構えで言っているのだと推察します。だから「批判されています」と忠告されると「うるせえな。そういう意味じゃねえよ」とその場しのぎにコメントを出して、また繰り返すことになるのでしょう。

 「ああ、困ったなあ」と扱いに苦慮するような原稿は傾向として、そんな、ちょっと楽しげな、はっきり言うと軽薄なムードに覆われていることが多いです。

 私が校閲するのは高校生を中心とした学習者用のものが多いので、わりとはっきりかつ事細かに「事実と違う」、「学習者が参照する辞書事典類と矛盾している」といったことを指摘してリライトをすすめるという作業が容易です。読者第一という方針がまずあり、その原理原則に従って作業するので、その点、一般書より相対的に編集サイドの責任が大きく、ダメなものはダメと指摘することに余計な負荷がかかりません。

 でも、著者の方の身になって考えてみると、読者受けを考えてちょっと軽めな構えで臨んだところ、「事実確認をせよ」とそもそも論的なコメントをつけられてしまうのだから、気まずいというか、もしかしたらいらいらするような事態でしょう。「うるせえな、わかってるよ」と言いたいこともあるかもしれません。

 私は「事実と違うことを書く」ことを、人類と歴史に対する犯罪だと捉えているので、腹を立てられて結構なのですが、間に立っている編集さんは何か、いろいろと調整しているようで、大変そうだなあと思って見ています。

 事実と、解釈や価値付けを分けることは、書き手が結構自覚的に意識していないと、意外と難しいもののようです。自分がどこの視点から、どのような視点から見ているか、それがフェアだといえるかどうか、常に意識していないと、文章は偏見含みの不快なものになります。事実(とされるもの)と著者の解釈が気持ちわるい感じにぐじゃぐじゃに混じり合い、最悪の場合は書いたものが事実から遠く離れていくことになります。

 と、

 まあ、

 いつも気をつけていることを書いてみたのは、「もしかして、事実や実際の出来事と、解釈をわけて考えるように常に気をつけている人って少ないのかな」と思うことがよくあるからです。

 名門進学校から東大に行って、そこで順調に学位を取って研究者として一線で活躍しているけど、わりかし事実確認せずひどいこと言う習慣があるのだな、この人はというような場面を見ると、「なんだかな」って思うのが止められない。

 でももう寝よう。

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明日も鳥を見たいです

 おやすみなさいませ。よそのあるじのみなさま。

 

📚 おしまい 📚