プール雨

幽霊について

嫌いなこと

  • 事実/歴史/文脈を無視する
  • 事実/歴史/文脈を捏造する
  • 事実かどうかわらかないこと根拠に恐れを表明し、共有をこころみ、広めようとする
  • なんらかの属性をもって個人を人種化する

 私はこういうことをする人たちに囲まれて育って、主観としては「毎日だれかと怒鳴り合っていた」のです。なのにその人たちは、私が家を出て行くと泣き、どうして出ていってしまったのか今もってわからないとまで言うのです。

 嘘かほんとか確かめようのないことで他人のことをジャッジして、最終的には「女だから」「外国人だから」と言い放つ行為が嫌で「嘘でしょ」とか、「一人、そういう人がいたからってみんなそうだって言うのはおかしい」とか言い返して喧嘩になっていたのですが、向こうとしてはそんなのはそよ風みたいなもので、「仲良かったのになんでこうなった」ということに落ち着いてしまうのを見たとき、もっとはっきりと軽蔑の態度を示し、そういうことが人の人生と生命を脅かすんだ、あなた方のしていることは犯罪にもひとしい行為なんだって言うべきだったんですね。

 でも、結局、嫌われるのが怖くて薄ら笑いでも浮かべていたんだと思います。

 「それはわかるけど」とか、ほんとは全然、まったく、一切わからないのに、感情的にはわかる、そういう理解の示し方をするといった不潔な行為を、私もしていたんだと思います。

 偏見に凝り固まって、特定の属性をあげつらうかれらはいつもカリカリしているように見え、それが血の繫がった弟や母のことなので、偏見から脱して幸せになってほしいとか、たまには夜ほっとして、「今日はいい一日だったな」と感じてほしいとか願っていたのですが、そんなのはあまりにも筋違いな、自分勝手な願いでした。

 さらに言えば、かれらを理解したいなんていうのはまったく、悪手というのか、考えてはいけないことだったのかもしれません。

 私はいつも「差別する人」の気持ちを考えてきました。そこには母や弟の顔がちらついていました。身についた権威主義のせいで、上位者を畏れ下位者を足蹴にする人生は辛いだろう、根拠なく人を馬鹿にしたり、ジャッジしたりする毎日は気が休まらないだろうと。

 大きなお世話ですよね。

 私もまた、かれらに対して「優しくありたい」とどこかで願ってきて、それは「受け入れてほしい」という気持ちが根っこにあってのことだったので、振り返ってみると、そういう風に気持ちが動くのはありえることとはいえ、甘いし、非論理的だし、お門違いだし、間違ってたなと思います。

 自分にとっては事実が大事です。これだけは変えられないし、変えるつもりもありません。

 だから、血の繫がった母や弟がゴシップに興じ、デマにのっかり、近隣の世話になっている人や会ったこともない人のことを悪し様に罵っていると、悲しいとも辛いとも惨いとも感じますが、結局、嫌悪感が先にあります。

 ある属性に注目して人種化し「こわいよね」と噂しあうのは、罪のないことでしょうか。そういう現場に何度も出くわしてきました。その度に「それは別問題でしょ」とか「偏見だよ」とか口を挟んでは、そのコミュニティからはじかれてきました。

 あの事態を「はじかれてきました」と言うとき、そこには「排除された」というニュアンスが生じますが、おそらくかれらにはそんなつもりはなく、私に対しては「ちょっと気難しい人」「めんどうな人」という程度の反応があるだけのことで、実際には、私の方が積極的に足を遠のかせてきたのだと思います。

 そのときに、自分の嫌悪感に蓋をしようとしていました。

 ゴシップやデマに乗っかるのは、みっともないことではあるけど、私だってデマにだまされることはあるし、悪いのはデマを意図的に流した川上にいる人のその行為であって、流されるかれらもまた被害者である、とかなんとか考えて、「事実でないことをもとに考えるのはよくないよ、それは偏見だし、差別表現だよ」という言葉を飲み込んできました。

 でも、実際にトランスジェンダーについてのデマが猛威をふるって、それを立法の事実として国会でぺらぺら「証言」されてしまう現場を見るに至って、自分の間違いを自覚しました(それにしても国会はすっかり、想像や妄想、偏見をもとに法案を審議していい場所になってしまったのですね。国会はいまやデマの震源地であり増幅器です)。

 ごくまっとうな生活を送る人の「こわいよね」の一言が、その「こわいよね」を優しげに受け入れようとする私のしたような行為が、差別行為の承認になり、ヘイトに広がりを持たせ、立法として結実させ、さらに差別を強化する。そういう道筋がはっきりしました。

 そもそも「理解増進」の四文字がよくなかった。「理解」としてしまうと「理解する主体」と「される客体」に最初から分断されてしまう。法案にあの四文字が入ったときから、この状況は用意されていたと考えるべきだった。大体、あの法案のどこに私がいるんだろう? 私は「理解」してもいないし、される予定もない。

 私は結局、事実でないことを根拠に延々だらだらしゃべる空間が大嫌いで、でも、その大嫌いなことをする人たちのことは嫌いになりたくない、と、そんな子どもっぽいところでずっと足踏みしていたようです。情けないことに。

 今朝の朝日新聞「悩みのるつぼ」では 70 代の男性が、長年連れそった妻のゴシップに興じる姿が辛いということを相談していました。信頼し、おそらくは尊敬もしてきた妻が、事実かどうか確かめようのないことをもとに有名人を罵るところに相対するのは辛いだろうと想像しました。一緒に生きている人に、年を取ってから嫌悪感を抱いてしまうのは辛いこと。相談者の方がどうされるかはわかりませんが、その嫌悪感をこねくりまわしてしまうと厄介なことになってしまうでしょう。嫌悪感は嫌悪感。私は「自分は今、嫌悪感を抱いているな」と意識するにとどめて、それをヘタに乗り越えようとしないようにしたいです。

 そういえば、これまで生きてきて、たまに人から「あなたは他人の悪口を全然言わない」というようなことを言われることがあり、そのたびに「え、言っているよ?」と不可解に感じてきました。私は嫌いなことや嫌いな言葉が無限にあるので、喧嘩や絶交はしょっちゅうで、ライブなんかで一度に大勢の人を見ると「私このなかの大部分と気が合わないんだろうな」とか考えてしまう方なので、主観としてはしょっちゅう悪口を言っています。客観的にもそうだと思うのですが、おそらく、ゴシップに乗らないとか、噂話を展開させないとか、その辺で「この人、悪口言わない」という印象が形成されれる場合があるのだろうと、思い当たりました。「悪口言わないね」の言葉のいくつかは「ノリが悪い人だね」という意味でもあったのでしょう。

 突然ですが、結論ないし、洗濯機も止まったのでおわりにします。