プール雨

幽霊について

平野千果子『人種主義の歴史』を読みました

 2022 年 12 月 3 日から一カ月以上下書きに放置していた感想文を放出します。

www.iwanami.co.jp

〜未編集の下書き〜

 知り合いとごはんを食べてて「韓国料理が好き」って話になったとき、相手が「あっ、韓国は好きじゃないけど、韓国料理が好き」って言い直したことがあって、今より大分キレやすかった私は心のなかで「もうこの人とごはん食べるのとか無理」ってなってしまったわけなんです。

 そのときは「やだやだ」と思っただけで深く考えもせずただ心のシャッターを下ろしたのですが、似たようなことがまた最近ありまして、かなり落ち込んでしまいました。相手は幼少期より信頼というよりほとんど依存していた叔母で、その叔母が「じつは、BTS が好きになっちゃって……」と言い出したので「いいじゃない!」と賞賛したのです。好きなもの、好きな人がいるのは良いことですので。そしたら彼女は慌てて「韓国は好きじゃないけど……」と言い訳のようなトーンで言い直すじゃありませんか。

 なんで!

 なんでよ!

 と尋ねると「あら、韓国の政治家ってひどいのよ」とネットで拾った情報を元に話し出したので、平素よりキレやすい私は「おばさん、悪いこと言わないからそのスマホとやらの、検索履歴、一回削除した方がいいよ。変な癖がついてるから」といらぬお世話の助言をしました。

 どちらのケースも一度にいろんなことが頭に去来してすぐ言葉にできませんでした。自分がなぜあんなに彼女たちの発言に嫌悪感を抱いたのか、あの怒りの中身は何だったのか。

 まず、「好き」って感情をそんな風に切り分けられるのが嫌だった。

 ここまでは好きだけど、ここから先は受け入れられないというのはみんな、よく言いますよね。

 私はその言葉、嫌いなんです。

 それ、「好き」って言う!? それ、「好き」って表現するの、図々しいでしょ!!

 「顔は好きだけどニンゲンとしては嫌い」みたいなことを言うときに「好き」って言葉を使うんだ、あっそう!! 使いたければ使えば? でも私、「好き」って言葉が好きだから、そういう風に使わないけどね!!

 「好きだ」って大変なことだと思う。「嫌いだ」は大抵理由を説明できるし、説明を求められなくてもみんな勝手にこれこれこうだから嫌い、とはっきり言う。けど、「好き」ってなかなか成立しないし、説明不能だし、いつ消える感情/関係かわからなくてはかないから貴重だと思う。

 大体そうそう、好きなものに出会えないでしょう。

 好きになったらがんばってほしい。その貴重な「好き」に向かって全力で駆けてほしい。韓国料理が好きだったらその料理の文化を調べ学び理解してほしい。BTS が好きだったら彼らの背負っている歴史と属している文化と彼らが置かれている状況を調べ学びともに苦しんでほしい。

 自分に都合のいいところだけ楽しんで後は知らんぷりなんて、そんなの「好き」って言うよりは単に生理的な反応でしょう。「性欲」って言いなよ。その性欲、性欲のまま他人に開陳していいと思ってるなんて、図々しいよ。

 と、まずこれが一点目。

 次に、ごくごく穏やかに談笑している時にすら、「韓国が嫌い」というきつい言葉が出てきて、そしてそのように時折「私は韓国が嫌いですよ」と言い合い確認し合うことが日本社会においては常識の属することだとつきつけられ、本当に嫌だった。

 「韓国料理が好き」と言っているときに、私が「でもさ、韓国って」とか言い出す相手だということが勝手に了承されているのが嫌だし、「BTS が好き」と言っているときに、私が「え、韓国のアイドルが好きなんだ?」とか言い出す相手だと思われていたと思うと本当に辛い。

 「戦争」といえば「反対」、「原発」といえば「脱」、「9条」といえば「24条」と応じる私がそう思われたのも悲しいし、また相手からすれば特に私のことを差別主義者だと思っているわけじゃなくてそれが「常識」的な応対だというのが悲しい。

 

 

 

 批判者に対して事実無根のデマをふりまき差別煽動する政治家が現に存在し、国政上重要なポストに就いているという異常事態を見るに、差別意識とは例えば格差拡大によって増大する結果なんかではなく、格差拡大の主要なエンジンなのだなと思います。

 『人種主義の歴史』に対してかなり遠回りになってしまって、本体にたどりつけませんでした。

 「(国名)は嫌いだけど」という言葉が親しい人の口から出て、どうもかなりショックだったらしく、なかなかそこから立ち直ることができませんでした。

 上に出てきた知り合いや叔母のエピソードを引くまでもなく、日本語圏では中国、韓国、北朝鮮、日本そして天皇(家)が出てくると、話者の倫理観が一気に下がるという問題があって、そのことと人種主義、レイシズムはもちろん関係があると思います。"race" という名詞はもともと家族とか仲間を意味したそうなのですが、それが今のように人種という意味をもつようになることに大いに関係したのは資本主義と植民地政策の進展で、そこで他者に出会った人たちが他地域の人たちから搾取することを合理化するために人びとを「人種化」していった、その過程が書かれているのが『人種主義の歴史』です。おすすめです。

 そのことを踏まえると、「人種差別」という表現はレイシズムの訳として不適当だということがわかります。「人種差別」だと前提としてまず人種というものがあって、他人種を差別するという意味になります。でもレイシズム、「人種主義」は、人びとを分類し、区別する考え方そのものを指します。

 「人種」概念は大航海時代から続く暴力と簒奪の歴史が生み出した発明品だったわけなんですね。

 今年、1 月 4 日、朝日新聞に竹沢康子のインタビュー「人種も社会的に作られた 分類したがる私たちは差別をなくせるのか」が掲載されていました。有料記事ですが、おもしろかったのでメモ的に貼っておきます。

www.asahi.com

 私たちは「中国人」や「韓国人」そして「日本人」、または「女性」「男性」など人種化して考える癖がついていて、それが非常に不自由な社会状況を生み出し、政策にまで影響していて、そしてなにより、一個の他者同士として人と人が出会い、ふれあうことを難しくしているんだなあとひりひりします。

 そう、「日本人」をせっせと人種化する運動も日本語圏では盛んです。自分たちで自分たちを区別し「特殊な」存在として表現することを外務省や文化庁が先導し、どんどん事実から遠ざかっているわけですから、そりゃ日本語も日本も貧しくなります。

 また、政治家や医療者が手に手をとって女性の身体を自分のもののように扱うところを見ていると、かれらの「日本人女性」を人種化したい、そして所有物とみなしたい、という強固な意志、あるいはその思考についた悪い癖を感じます。

 あらゆる場面で「差別じゃない、区別だ」という言葉をよく聞きますけど、その「区別」からいじめや暴力、差別といった営みは始まるわけで、そのときに「人種化する」という考え方はきわめて重要だと思います。その人自身と出会う前に人種化してしまっていないか。そのことを相対化し反省できることは差別に抵抗する第一歩になりうるからです。

 おすすめです。

今朝の月、桜の木ごし

🌝 おわり 🌞