プール雨

幽霊について

もうずっと、機嫌が悪い

 被害を告発すると被害者へのバッシングが始まるということは、この社会には暴力が「常識」として組み込まれてるってことだと思います。

 被害者と加害者がいて、加害者側に圧倒的に権力資力などが集中していて、そして明らかに告発されている側に非があるようなときでも、告発即被害者に対するあら探しと再加害の始まるところを何度も何度も見てきました。

 たとえば痴漢被害というと、まず被害者に注意喚起することから話が始まるってことは、痴漢が社会システムに組み込まれていて、この社会の「常識」の枠内にあって、どちらかというと被害に遭い、そのことを訴える側が非常識だということになる、そんな社会だってことだし、政治家がいくら性差別を告発されても「誤解を与えた」とだけ言ってまた繰り返すのは、政治家の世界では性差別が「常識」に組み込まれていて、性差別をしないとその「常識」に組み込まれない、受け入れられない世界だってことだし、DV というと虚偽でしょって話に勢いがつくのは、この国では家族内に序列があって下位の者が暴力をふるわれるのは「当たり前」「しかたない」ことであって、それを振り切って逃げるのは社会の秩序に対して反抗的な態度だってことになる。

 権力に距離を取ろうとすると「反日」って言われるのは、ここで言う「日」が権力者のものであって、どれほど無法、違法なことをされても一般市民は「粛々と」従うのが「常識」になっているなにかだからだ。

 「平和を構築しよう」なんて言うと必ず「反日」って言葉がついてくる。

 「持続可能な環境政策を」なんて言ったらもう必ず言われる。

 まして「隣国との協調的な関係を」なんて言ったら、「ふつうの日本人」が「反日」と指さしてくる。

 つまり、この社会はその「常識」に性差別と人種差別、身分差別など諸々の差別とアジア蔑視が「秩序」と「道徳」の名の下に組み込まれていて、そこに適応しようと「まじめに」がんばった人ほど、年を重ねるにつれ、差別的な言動が「ふつう」になってしまう、そんな社会だということだと思います。

 「適応しようとまじめに、社会の、大人の言いなりになっていたら、ものすごく嫌な人に仕上がった」なんてことが起こる社会は、悲惨だとしか言いようがない。

 まじめにこつこつがんばる人が、ふつうに学んでふつうに働いて、投資などに気ぜわしくふりまわされることもなく、自分を尊重し、隣人を尊重して穏やかに楽しく暮らしていける、そういう社会でありたいし、ふまじめにだらだら過ごしたい人もだらだらしたい人なりに、あくせくどたばたしている方が性に合う人はそういう人なりに、働いたり休んだり何もしなかったりしながら、困ったことがあったら助け合い、励まし合い、打ち明け合いながら生きていけた方がいい。今みたいな、バカにし合い、脅し脅され、勝つか負けるかがいつも問題になる(そして 90 %の人は負ける)ような暮らしは、ま、自分はしていないんですけど、そういう人たちの顔を見ていると「背中に銃でもつきつけられてるのか、それとも人質でも取られてるのか」って思いますし、できればそこから脱出して幸せになってほしいと思います。