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幽霊について

権威主義で奪われているのは

 権威主義のもとでは「やさしさ」は上位者から下位者へ与えられる、下賜されるものとして認識されるようです。そこで「やさしさ」は支配階層からの「ほどこし」に意味を変え、下位者から上位者へ向けられることはありません。下位にある者が上位にある者を気遣っても、それは「気が利く」といった程度のこととして、その関係性の中で認識されます。そして、支配階層が「よし」と承認した者だけが、「やさしさ」「温情」の対象となり、それ以外は無視してよいということになります。むしろ、上の人が「よし」と言わなかった人に対して手を差し伸べると、手を差し伸べた人も含めて大変な迫害に遭います。

 権威主義のもとでは人間同士の温情みたいなものにまで上からの許可や承認が必要になるので、人びとは互いに助け合わなくなります。承認されない「やさしさ」は非道徳的なことなのです。

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 現状、すみずみまで権威主義が行き渡ったということなのでしょう。

 そうした権威主義を「正義」「道徳」として構成している人にとって、政府が承認していない相手に支援するのはとんでもないこと、罪に属することのようで、今国会では維新の会所属の議員からウィシュマ・サンダマリさんの死亡問題についてデマが執拗に繰り返され、そこで支援者が攻撃されました。

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 困難な状況にある方々への支援の仕事は、このところデマと誹謗中傷に晒されていて、国や、都など自治体からのフォローもない状況が続いています。

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 政治家も一般市民もウソをつき、デマを流し、告発されたときは「誤解を与えた」と言いますが撤回まではしないという事態をずっと恐怖にも、不可解にも、また不気味なことにも思って来ました。国会で政治家が虚偽答弁を重ねるなんて! が、「権威主義=道徳」という世界観のもとで眺めてみれば、それは完全に整合の取れていることなのでしょう。事実や現実や人間個人ではなく、立場や血脈が重要と考えるなら、そうなってしまう。

 目の前に困っている人がいるときに、それも、命や人生にかかわることで困っているときにまわりがどうにかしなければいけないと考えるのは、なにも「やさしさ」や「共感」などを発動させなくても、起こることです。満員電車の中でだれかがうめき声を上げたときに、さっと周囲の人が「大丈夫?」「どうしました?」と声をかけるといったことは何も「やさしさ」なんて持ち出さなくてもできることですよね。そのはずなのに、喉がつまるのはなぜでしょう。

 あらかじめ私たちが分断されていて、隣人とちょっとした言葉を交わし合う程度のことにも勇気が必要とされるように「道徳」が構成されてしまっているからですよね。

 手を差し伸べるのに「上からの許可」が必要で、そして、手を差し伸べる前に、相手にその価値があるか、そのように承認された相手か確認しなければならないと思い込んでいるから、「どうしました?」の一言も出なくなる。

 権威主義では自発的な行為というものがそもそも抑制されていて、それは最初から選択肢が奪われていることであって、そのことに自覚がないと、自発的な行為をしている相手が恐ろしいもののように見えてしまい、「支援者は金をもらっている」だの、「儲かるから支援するんだ」だの、どう考えてもデマなのに、そうとしか思えなくなってしまうんだと思います。

 人権は下賜されるもので、まず義務を果たさなければ人間として承認されないんだなんて思い込んでいると、上位者に「命を奪う権限」を与えることになる。そんな権限、ないので。死なせてもいい権限とか、殺せという命令を出す権限とか、そんな権限、だれにもないので。「ないものはない」と言い続けるには、自分には人権がある、一人ひとり人権があると自覚するところから始める意外にないのかも、と思います。

 現状、国会は差別の象徴だといえるほど、ひどい状況です。国会ではいつも「だれなら差別していいか」という話をしています。「人権を保障すべき相手はだれか」という倒錯した話をしていて、議論にならない。「真に支援が必要な相手」の話をしているかぎり、支援はどこにもやってこない。

 ほんとうなら、政府が憲法を遵守していれば、私たちが差別されることも差別することも、暴力を振るわれることも振るうことも、勝手に財産を奪われたり盗まれたり盗んだりすることもない社会が、今頃実現していたかもしれません。100 % とまでは行かなくても、そこに向かっているんだという合意のもと、主権者意識と公共意識をもった私たちが日々細々としたことに頭を悩ませつつも「子ども達が大きくなるころにはこの問題は解決しているだろう」と期待できる、希望をもてる社会がもしかしたら、成立していたかもしれません。

 それが憲法からの命令だからです。私たちは主権者で、憲法に示されることを実現するよう政府に働きかける権利と義務があります。しかし、そこからは背を向けたまま 70 年以上やってきてしまって、その間、他の国では都度都度、制度を検討し、変更をくわえ、人間が苦しまずに生きていけるように努力してきた結果、もはや解消不可能と思えるような差が開いています。理念上制度上での差だけでなく、それは経済的にも文化的にも大きなものになりました。

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 この間、ほんの十年くらい前には「自分は右でも左でもない」といい、「市民運動なんて自己満足」といい、デモや署名に冷ややかな反応を見せてきた人たちが絞り出すように「NO」と意思表示するところを見てきました。

 命や人生を現実に脅かされて無理矢理立たざるを得ないかたちで自身の権利というものに出会ってしまったのは不幸だとはいえ、そうした人たちが自由と人権に目覚めていく過程はとてもまっとうなものとして互いの目に映り、日々、密やかに励まし合えているなあという実感があります。

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🌈 突然ですが、おわり 🌈