プール雨

幽霊について

見えていなかったこと

 映画『ドリーム』("Hidden Figures")の終盤で、ヴィヴィアン(キルスティン・ダンスト)がキャサリンタラジ・P・ヘンソン)に向かって心情を述べます。彼女なりに歩み寄ったつもりで、自分には差別する気持ちはない、それをわかってほしいと言います。そして、キャサリンは毅然と答えるのです。ええ、わかっています、差別する気持ちはないって自分では思っているということを。

 ヴィヴィアンには差別する「気持ち」や意図はそりゃ、ないだろうと思いました。彼女は人種差別の構造のなかにいて、それを維持するためのなにか、過激な表現をすれば人種差別という機械の部品です。彼女の価値観はその社会と深く結びついていて、社会の側を主としてみれば「地に足が着いた人」ということなり、価値を(縮小)再生産していく大事な部品ですが、「人間」という観点からすれば、尊厳や個性とは関係のないところで生きていて、暴力的です。

 映画を観た時点ではここからヴィヴィアンも闘っていくのだろう、傷つきながら、一人の人として目覚めていくのだろう、などと思っていました。


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 私はこどものころ、差別する人というのは、自分でもそれが偏見に基づいた言動だとわかっていながら、どうしてもそうしてしまうのだと思っていました。その人たちも苦しいのだ、そして、いつかはその偏見から抜け出すべく、日々その人なりに努力を重ねてはいるのだと、勝手にそう思っていました。

 自分の生きる「世界」を生きる甲斐のある場所だと期待し、信じることで、生きる糧にしていたんだと思います。

 これがまったく、自分の弱さから出た発想で、私は長いこと間違っていたんだと理解したのは、情けないことについ最近のことです。

 生まれてこのかた、「差別する意図はなかった」「私は差別したわけではない」という「釈明」を繰り返し聞かされてきて、そのたびに「そりゃそうでしょ」と思ってきました。「ようし、差別し、排除してやるぞ」という「意図」をもって相手の人格その他を傷つける人なんかいません。大抵は、「みんながやっているから」とか「上司に命令されて」とか、「流されて」、他人を国籍や性別、容姿、経済状態、健康状態等々の属性から軽んじて、攻撃しはじめるわけですから、「それ、差別ですよ」と指摘されたところで、かっときて「差別の意図なんかない」「私はレイシストではない」「みんなやっているじゃないか」と言い、あげくの果てには「そんなさわぐことじゃない」「おおげさだ」と糾弾するのです。

 この数年、家族や知り合いが差別的な言動をおおぴらにするようになったことに悩んできました。

 以前からそういう傾向があっても、公共の場でそうした言動を取ることはなく、少なくとも私の前では遠慮してくれていた人でさえ、おおっぴらに、かつ執拗にするようになりました。そしてこれは冗談でも何でもなく、現状では政府が差別構造を温存することを選択し、内外に差別構造がすなわちこの社会の秩序だと表現し続けていることの影響ないし「成果」だと考えています。

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 多分、この社会に適応するということは、とりもなおさず、「いじめる側、暴力をふるう側、差別する側に回る」ことを意味するのだと思います。

 みんな、背中に銃を押し当てられたような気分で毎日暮らしていて、そしてなかには銃を押し当てる側にまわることで生きようとする人もいる。

 こんな状況で暴力を記述するのはひとくろうで、単純に「だれかがだれかを攻撃した」では済まされず、暴力にどうからめとられているか、その構造を(現状では被害者側が)記述する必要があります。加害者側はひとりの個人ではありません。単独犯に見えても、なにかが後押しし、なにか権威のようなものに支えられています。加害者達は暴力構造の一部になっていて、だれか一人を糾弾したり責めたりしても事態はほとんど改善しないのです。でも、事件ひとつひとつを追及する以外、被害者には手がありません。暴力という機械の部品になっている加害者をそこから引き剥がし、一人の人、個人として立ってもらう以外にないのです。

 私は、加害構造に対して無力です。でたらめを並べ立て、デマをもって人を攻撃するような人たちに、ひとつひとつ「ここはどういうことですか?」と尋ねても、答えてはくれません。でたらめを言っている、デマを飛ばしているという自覚があるのかどうかすら、不明です。やれることといえば、せいぜい、被害を受けている人に共感や連帯の意思を示すことくらいです。

 私は昔から、ヴィヴィアンのような人になつかれる傾向がありました。勤勉で、よい人生を生きたいと願っているが、基本的に保守的で、仕組みを変えたいとか、知りたいとかそういう気持ちはない、臆病で繊細な人たちです。「差別はしょうがない、人間にはつきもの」「社会を維持していくには交通整理(!)が必要」と言う人たち。そういう人が時折、私に近づいてきては、去って行きました。私がクソリベラルであることに、失望して去って行くのです。一体、私に何を期待してあんなに近づいてきたんだろうと、時折思い出すのですが、答えは知りようがありません。ただ思うのは、私の甘さがヴィヴィアンたちを安心させたのだろうということです。もっとハードなたたずまいを身につけなければ、同じことが起こるでしょう。

 差別はだめ、というので通じなければこう言います。自分のことも他人のこともだれのことも、軽んじないでほしい。ばかにしたり、脅したり、指を指して笑ったり、ましてや自由を奪ったり、デマを流して社会生活を営めないようにしたりするのは、だめに決まっているでしょう。

 突然ですが、洗濯機が止まったので、以上です。