プール雨

幽霊について

物語は生まれなかった

 最後のエヴァンゲリオンを見ながらまず思ったのは、「これって、新興宗教団体がクーデターを起こして成功したんだけど、公共を設計する能力も維持運営する能力もないためにぐちゃぐちゃになっちゃってる世界ってことかあ。あっ、でもそれって今の日本そのものだなあ。そうか、エヴァって、すごくぴったりと『今』によりそって、『今』の苦しみのなかから立ち上がろうとして失敗してきた、そういう歴史なんだなあ。だから終わらなかったんだな」ということです。

 映画は現実の写し絵、もっというと現実の僕であるという主張がエヴァンゲリオンにはある。私はそういう発想はないので、つきあいもここまでだと思う。でも、現実の写し絵として正確だったし、その分、終わらせることが困難だったと思う。

 異様に世話のやける男がひとりいて、そのために子どもは一人前になることができず、セクハラとパワハラが横行するというか、すでにセクハラが「作法」化している世界で人々はいらいらし、女の子たちは繰り返し死に、男は一度だけ死ぬ。その子どもが一人、成長し、この社会でやっていけるようになるためには、多大な犠牲が必要だった。

 男の子がひとり、なんとか死なずにやっていけるようになりました、というだけのために、これほどの苦痛と損害と数々の死が必要だった。

 それはこの社会の 30 年間に起こったことそのままで、世話のやける親父に私たちは「いいかげんにしくてくれ、おやじ!」と言いながらふりまわされ、「女の子」であること自体災厄だとでもいうかのように繰り返し繰り返しおじさんにひどい目に遭わされ、一方、「男の子」が生きていくために一体どうすればいいんだとみんなでよってたかってわっしょいわっしょいと神輿で担いできたが、担がれた方も困るのだった。

 みんな、困っていた。困っているうちに時は 2021 年。アキラを通り越してしまったのでした。

 そんなわけで、この映画は「終わった」ことに価値がある。

 ひたすらきもくて暴力的だったこの 30 年。ひとつひとつ指さし確認しながら、「さらば」と言おう。