プール雨

幽霊について

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を見ました(物語の経緯をおしまいまで書いています)

 昨日の朝の月。

早朝、西の空

 都会に出る用事があったので、ついでに『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を見ました。

オセージ族が暮らす土地で石油が出た。オセージ族はそれで莫大な富を得るが、同時に白人資本家という魔も呼び込むこととなった。一族の人びとは不可解な死を重ねていく。捜査はろくにされず、自殺として処理されることも多かった。不穏な経緯のなかで姉妹と母を喪ってきたモーリーはワシントンに出向き、大統領に捜査を直談判する。特別捜査官が派遣され、大規模な捜査が始まった。

 よし、見るか! と勢いで見てよかったです。

 何も考えず勢いでぱっと行ってぱっと席に座ったらぱっと始まってぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱと犯罪行為が重なって人びとが次から次へところされ、次はアーネスト(デカプリオ)か? というところでさらにぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱと捜査が行われ、あ、J・エドガーだと思っているうちに事態が白日の下にさらされ終わった。エンドクレジットまで見応えがあって(このエンドクレジットは見る価値あり)、哲学者同士の難解なやりとりを正座して読んでいるようなハードさはなかったです。

 現実のなかにこの映画はあって、しかしその映画には始まりと終わりがあって、終われば客電がつき、観客は解放される、そういう安心感もあって、すごく明るいところで映画を見ているなあという感じがしました。

 それと同時に、現実と地続きにある、現実から生まれ、現実に還っていく映画だという重みもあって、そのことも安心感に繫がっているように思いました。

 愛や夢や希望を謳っておきながら現実には暴力に対して親和的で、差別もばりばりするなんて、そんな作品は残酷すぎる。そんな姿勢とはねじれの位置にある、誰にとっても厳しく、そして暖かい映画でした。読みながら、考えながら、書きながら生きていくしかない、という気になります。

 ウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)はオセージ族から搾取するに止まらず、彼らの手にしている権利を手に入れるために甥、アーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)たちを利用し、支配し、オセージ族殺害の実行犯へと仕立て上げていきます。

 犯罪の片棒をかつがされるアーネストが「あれ? それやったらいけないことでは?」と一瞬は迷いながらもそのまま流されていくのは、やはり彼にとって他者である「インディアン」への差別意識があるから。相手を自分と同じ人間だと思っていれば、最初から「おじさん、異様なこと言ってますよ?」と抵抗できていたわけで、この弱くて愚かな人物をレオナルド・ディカプリオがリアルに、説得力をもって演じていました。

 ロバート・デ・ニーロもそういうところがありますが、レオナルド・ディカプリオはより一層、映画俳優という仕事を通じて罰を受けることを選択し続けているように思います。

 映画の中で、何度も罪を重ね、失敗し、人を傷つけ、そして罰を受ける。そういう俳優人生なのだなあと、ディカプリオのことを受けとめながら、植民地政策について公的に精算した経験をもたない側の歴史につらなる人間の一人として、私も罰を受けたいと考えていました。

ryukyushimpo.jp

 この辺野古代執行訴訟について沖縄県知事の意見陳述を、日本列島の、特に沖縄以外の島に住み、国籍と選挙権を得ている私は最低でも日に一度は読むべきだと考えます。私は恥を知り、事実に迫らなければなりません。

 そして、今朝の月。

早朝でした

ひかってるう

きれいよ〜

 軽薄なことで恥ずかしいんですが、音楽がよくて、繰り返し聞いています。できればまた映画館で聞きたいくらい。

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 おすすめです。

🎥 おしまい 🎦