親戚や友人たちに子が生まれ、やあやあとその新しく生まれてきた人に会いに行くと、その人たちは必ず、生まれた瞬間から固有の人格をたたえているのでした。そして意外なほどに親たちとは似ていなくて、「もう、この人にはこの人の性格と人格があって、この人しか歩けない道があるんだな。それが枉げられず、のびのびと、無事に育っていけますように」と願ったものです。
傷ついたり、傷つけたりしたときは、どうしてそうなってしまったか、そこに至る道筋をじっくり考えて、うまくいかなくても話し合えて、「ごめんなさい、私は間違った」と表明できる関係が人と築けますように。
嘘をつくことを人から命令されませんように。
嘘をつく人に「嘘をつくな」と言えば済む人生でありますように。
嘘をつく人に従わなければいけない状況を拒否できますように。
人を傷つけることを命令されませんように。
人を傷つけることを即座に拒否できる環境でありますように。
盗まずに済む人生でありますように。
盗んだ人に「元の人に返せ」と言えば済む状況でありますように。
殺せという命令をされずに済みますように。
命令を拒否できる状況でありますように。
死ねという命令をされずに済みますように。
命令を拒否できる状況でありますように。
これって高望みでしょうか。
弟に子どもができたと聴いたときは喜べなかった。
何かの間違いであることを願いました。
どうしてこの残酷な現実に新しい人を送り出せるの? と弟を軽蔑すらしました。
そんなことを考える私はもう、壊れているんだなと思いました。
私は、泥棒を捕まえることができず、盗まれる一方です。
権威ある人は嘘をつき、嘘をつけという命令は上から下へ下りてきます。
沈黙せよと命令されています。
相互にそれを監視するよう命令されています。
記録は残りません。
記録しないからです。
上に立つと人は人に暴力をふるいます。
それが「上に立つ」ことなのだそうです。
おさえつけること、支配すること、意のままに動かすこと。
命令は理不尽であればあるほど、その地位の確かさを証明するようです。
確かな地位にあるときは、告発されることも逮捕されることも裁かれることもありません。
みんながその犯罪を知りながら、黙って従っています。
そのために、みんな人生を枉げられて、そして、「いやだ」と声を漏らした人の口をふさぎ、命を削っています。
せめて「言葉の意味をねじまげてはいけない」という価値観が共有されている社会であったなら、どうでしょう。
私たちの年老いた親が、さんざん世話になっている隣国を悪し様に罵ったり、沖縄やアイヌの先住民族を差別したりするところを見ずに済んだのではないでしょうか。
言葉に意味があるということが、言葉を口にしながら互いに受けとめていける社会であったなら、どうでしょうか。
私たちはもっと大事なことを打ち明け合い、つらいと言い合い、助けてと言い合っていたのではないでしょうか。
明るいものが読みたいと思って手に取ったのが三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』です。
今、自分の首に手がかかっていて締められようとしている、背中に銃口が当たっている、そんな、脅されているような気分のときに、しかし「どうしてこの状況で自分はまだ何かに期待しているのだろう」と不思議に思います。姪たちが、この、日に日に生きる場所が小さく貧しくなる世界でも、きっと生き抜いていけると、どうしてイメージできるのだろうと自分でも不思議に思いながら、『言葉の風景、哲学のレンズ』を読みました。
マーベル映画に繰り返し登場する「どういたしまして!(You're welcome !)」という台詞がかもす明るさはなんなのか、「議論が尽くされていない」の語が用いられる場面に充満するずるさとはどんなものか、抗議をしたり被害を訴えている人に「定義」を問うとはどのような意味をもつ行為なのか、といった問が立てられては、ああかもしれない、こうかもしれない、きっとこうだ、と試行錯誤が続きます。
コミュニケーションにおいて意味がねじまげられ、発語の意味が奪われてしまうこと。そのとき、自分ならどうするだろう、そう考えている間だけは、明るさの中にいるような気もするし、自分はきっと笑うことを諦めないし、幸せを求め続けるだろうと気を確かにします。
おすすめです!
(電子書籍もあります)
📚 おしまい 📚