プール雨

幽霊について

ちょっとふりかえり、事実確認

 以前、はてなブログを直してもらったと書きました。

poolame.hatenablog.com

 これを書いた頃 Twitter で、ご自分のブログが検索で全然上がってこない、これは変だ、っておっしゃる方々が複数いらしたのです。それで私は、あっ、私も同じ状況だなと思って、「報告したら直してもらえた」と書き込みました。すると「言ったら直してもらえるんですね? じゃあ私も〜!」という声があがり、よかったと思っていたのですが……。

 私、昨日辺りふと気づいちゃったんですけど。全然違う話だったのですよ。

 私の場合は、検索エンジンに上がらない設定がオンになったままどこをどうしても直らないという不具合で、これは、はてなに相談したら直してもらえたのです。

 でもそのとき皆が「変だねえ」と言っていたのは、およそ(はてな)ブログというものが検索で上がりにくくなっていて、アクセスが伸びなくなってきた……的なことだったのですねえ。わけがわかっていませんでした(今もよくわかっていない)。

 あのときは期待をさせてしまって申し訳ありませんでした。でももう今更だし、伝えようもなく、すこし困っています。

 この事態に気づけたのは、荻上チキがまとめた「自民党過激な性教育ジェンダーフリー性教育調査検討プロジェクトチームの実態調査」を閲覧しようとしたことによります。確か、はてなブログにエントリとしてまとめがあったなあと思い、「荻上チキ 自民党 過激な性教育」などで検索したのですがすっとたどり着けず、結局「荻上式BLOG」の表玄関から入りました。昔ははてなブログの記事、「はてなブログ」とかつけなくても、ちょっとした検索で簡単に見つかったんですけど。

seijotcp.hatenablog.com

 このところ、「保守」陣営の人による「行き過ぎた○○」「過剰な○○」論法が勢いづいているので、

「行き過ぎた○○」中興の祖、「自民党過激な性教育ジェンダーフリー性教育調査検討プロジェクトチーム」のやったことを改めて確認しておこうと思ったのです。

 このプロジェクトチームは極めて恣意的で誘導的な「実態調査アンケート」を行い、約 3500 の回答を得たのですが、このうち「実例」の報告としてカウントできるのは数百件がいいところであり、それらがまた「過激」かどうか、専門家による分析が必要なはずなのにそれもなく、そんな中で「3520 の回答」を「3520 の実例」としてアナウンスしたことの効果は絶大で、結果としてあの教育基本法改悪に至った経緯は何度思い返しても新鮮な怒りがこみ上げます。詳細は上記のブログをたどっていっても読めますが、荻上チキ「政権与党によるバックラッシュ」(『バックラッシュ!』双風舎)にくわしいです。さらに詳細なデータをご覧になる場合はこちら

 いつ思い出してもくらっとするのは、以下の経緯です。

  1. 国連で「女性差別撤廃条約」採択、のちに日本も条約批准
  2. 女性差別撤廃のための国内法と取り組みが必要になる
  3. 「性差別」「平等」などの語に対する自民党政治家のアレルギーにより「男女共同参画」の語誕生
  4. しかし「保守」派からはそれすら受け入れられず(「共」の字が気に食わないなどの屁理屈付き)、改廃へ! という動きが発生する

 この、自分で言っといて自分で改廃を目指す経緯が……。

 さっきから「保守」と保守に「かぎかっこ」をつけているのは、こうした政権与党の差別・支配構造へのこだわりは保守という言葉では追いつかないものがあるからです。彼ら彼女らの、強い家制度、家父長制へのこだわりにより選択的夫婦別姓すら実現できていない状況です。夫が中心となって父権をふるう家父長制を維持すれば、誇り高い男たちによる強靱な国家が実現するとでも思っているんでしょうか。でもそれで一回、徹底的に失敗しましたよね? 家父長制だと富が一極集中するし、家の中、社会の中に序列が出来て奴隷的な扱いを受ける階層が生まれるし、性役割が固定化されて……要するに、女に無償で自分の面倒をみさせるのが当たり前だと思うようなダメ人間が量産されるからダメってのはみんな、身にしみているのではないでしょうか。今でも自分で脱いだ服の始末もできない謎のダメ男に対する悲鳴があちこちで上がっていますし、「嫁」と呼んで女に無償労働を強いる「家」はいくらでもあります。

 こうした基本的な問題以上についつい考えてしまうのは、素朴な話で恐縮なんですけど、「行き過ぎた○○」「過激な○○」「過剰な○○」と判断する人は、どうしてご自分がそれを判断できると思い込めるのかということです。

 「過剰な平等」と口にする人は「ちょうどいい平等=ちょうどいい不平等」を想定しているはずで、自分にとって都合のいい不平等を社会に残していこうと主張していることになります。でもちょこっとだろうと、いい感じだろうと、どこかに不平等が残されていれば、その社会は単に不平等な社会です。だから多分、「行き過ぎた○○」「過激な○○」「過剰な○○」論法の人は「○○」がどういうものか、よくわかっていないんだと思います。

 こうした、政権与党伝統の「行き過ぎた」論法を使えるのは、自分がマジョリティに属していて、この社会の価値観としっかり結びついているという自信があるからですよね。だからマイノリティの主張に対して、「程度問題」で応じることができる。このくらいならいいけど、ここから先は行きすぎだよ、と自分には教導する資格があると思い込んでいる。他人の身体や健康、命に関わる問題を自分のリアリティに基づいて編成し、拒否し、最終的には支配できると信じて疑わない。

 だからここから伝わってくるのは話者の「現実観」であって、事実や現実ではありません。自民党の先の調査と報告もきわめて「保守」的な人々の不安に基づいて現実を無理矢理編成しようとして失敗した(「過激な性教育」の事例自体は集められなかったので)にもかかわらず、彼ら彼女らの「現実観」に基づいて現実の法令を改変してしまった。想像や妄想で「ない事実」や「いない対象」を糾弾し、それに基づいた法令で現実を縛る。

 そういうことが延々繰り返されているのですが、時々その事実を日付つきの情報で確認しておかないと、また同じことをされる可能性が高まるので、改めて確認してみました。権力も財力もある相手の頑固な妄想には勝ちようがありません。相手の決めた謎ルールのゲーム上の話なので。それでも、構えがあるのとないのとでは傷つき方が違うと思いますし、ゲームには負けても現実の幸福を手にする可能性はあると信じて、たまに振り返って読んでいます。

 きもいんだよ、ばーか!!

 の一声で済ませたいところをこうしてちまちまと、事実確認していて、私えらいと思う。

毎年、あじさいに目を奪われていて見逃す「クチナシっぽい花が咲いているところ」を今年はばっちり見ることができました。

 突然ですがおわります。