プール雨

幽霊について

「国葬(儀)」の周辺を見ながら

晴れ

 岸田首相は 7 月 14 日の記者会見で「国葬儀を執り行うことで、安倍元総理を追悼するとともに、我が国は、暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示してまいります」と発言したあと、「暴力に屈しない」「民主主義を断固として守り抜く」の二点を繰り返し述べてきました。

 「暴力に屈しない」=「国葬(儀)」の論理性がこのときから今に至るまで、全然わかりません。あの殺人事件に対して「暴力に屈しない」とはどういうことを意味するのでしょうか。犯人は現場で逮捕され、現在捜査中で、法の下で裁判にかけられ罪をつぐなっていくことになります。犯人の暴力に対して、それ以外になすべきことはありません。そのことと故人の葬儀をどのようなかたちで行うかは関係がありません。すでに葬儀が済み、人々が献花や記帳を済ませ、哀悼のメッセージを寄せ、四九日も過ぎているというのに更に葬儀をする。しかも根拠法もないなか閣議決定だけでそれを断行するという暴力的な行為がなぜ「暴力に屈しない」というメッセージたりえるのでしょうか。

 これと関連して「民主主義を断固として守り抜く」という主張も、民主的なプロセスを欠いたうえに抗議があがると「黙って」とまで言い、明らかに反民主的な態度を貫いておきながらどうしてそう言えるのかさっぱりわかりません。

 この、7 月 14 日から 9 月 27 日までの間、政府は徹底的に暴力的だったし、反民主的で、自らが発した「暴力に屈しない」「民主主義を断固として守り抜く」というメッセージを空文化し続けました。さらに大きな問題として、クーデターによって政権を倒し、市民を弾圧しているミャンマーの大使を招いている。www.tokyo-np.co.jp

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 こうして、日本政府は暴力を「権力に抵抗すること」と定義していることが骨身にしみた夏でした。権力をもつ側が一般市民の権利を制限し、不安を煽って脅し、拘束したり銃口を向けたりすることは許されるが、一般市民が政府に抗議をすることなど決して許さないと政府は表現し続けています。日頃パワハラまがいのことをしておいて、「やめてくれ!」と言われると突如「誤解だよ、ひどい!」と応じて被害者ぶる、そういう、いかにもいじめっ子が、ハラッサーがやりそうなことを政府一丸となってしているなんて、そしてそんなことに注力しているなんてどうかしています。

 元首相が公衆の面前で殺害されてしまったことは、本当に残念です。彼には生きる権利がありました。そして、裁判で証言をし、罪を改める権利がありました。それらの権利が中途で奪われたことはあまりに気の毒です。

 とはいえ、そもそも、選挙協力を暴力団に通じる人に依頼して妨害工作を行ったということまで明らかになっているような人物が長年首相を務めたこと自体、驚くべきことであり、どうしてそういうことが可能になってしまったのかは改めて問題にしなければならないでしょう。

 元首相が作り上げた「美しい」体制下では市民が監視の対象になり、権力と距離を取ろうとすると「反日」と攻撃され、問題点の指摘すら難しくなっていました。そうして、「抵抗勢力」をまるでスパイだといわんばかりに抑えつけてきたのに、あっさり身内に近いところから攻撃されてしまったわけで、その奇妙なまでに脆弱な体制に対して見直しをしようという機運が政府側に起きないのが不思議です。

にょーん

秋はいいねえ

🌼 おしまい 🌼