プール雨

幽霊について

言葉を盗まれているので

 名詞やアイコンなど、わかりやすくシンボリックなものをもちいて抵抗することの問題についてすこし考えた。

 昔、酒井順子『負け犬の遠吠え』がヒットしたとき、その「負け犬」という言葉だけが元の文脈や歴史性から引き剥がされて流行語になってしまうということがあった。悲惨だった。

 こうしたことは政治に近いほどよく起こっている。この十年くらいで最も印象的だったのは「積極的平和」という言葉を元首相率いる日本政府が盗んだことだ。

 「積極的平和」は 1940 年頃から法学者、平和学者の間で用いられ始めた平和学の用語で、戦争の原因となる構造的な暴力がない状態を「平和」とする考え方のこと。その前提となるのは、貧困や差別、格差を構造的暴力と捉えることだ。「積極的平和」を目指す立場では、まずもって格差と貧困の問題を解決しなければならない。制度に組み込まれた様々な差別の解決を目指し、大手資本による抑圧的な開発や搾取の問題を解決するための提言をしていく。

 この「積極的平和」という言葉を盗んで「積極的平和主義」なるものをひねりだしたのが安倍晋三で、日本語で「積極的平和主義」を検索すると内閣官房のサイトがトップに来るという状況を構築した。粘り強いというべきか、言い出したら聞かないというべきか、安倍晋三の元では「迎合」か「根負け」か「離脱」しか選択肢がなかったようだ。そこで言われている「平和」は「積極的平和」の「平和」ではなく、単に戦争のない状態を指す「消極的平和」ですらなく、なんらかの脅威を前提とした軍拡を安全保障にくみこむことで、その「主義」にもとづき、安倍晋三テロ等準備罪や秘密保護法などの成立に尽力した。あの時期表明されたのは、政府にとって脅威とは隣国の政治状況などではなく、民間人のことだということだ。民間人がテロリストになったり、スパイになったりする状況を恐れて、監視できる法律の制定に懸命になっているうちに、身内に近いところから首相が撃たれてしまう事件が起きた。この、徹底して右派と右派の妄想だけで進む経緯に関して、左派は蚊帳の外だった。

 話がずれてしまった。

 「積極的平和」という言葉を厚顔な政府が盗み、国際的にもそう表明しているという恥知らずな状況にいまだに腹が立っているので。

 考えたいのは、右派は左派の言葉を盗み、その文脈と歴史性を破壊する手法に長けているということです。これまですでに「自由」や「民主」「人権」「公平」などの言葉が盗まれ勝手な意味を付与されているが(権力をもたない者の表現を支えるはずだった「表現の自由」は、権力をもつものの放言を許すための方便として用いられている)、それらの言葉に文脈と歴史性を取り戻すためには、名詞に頼らず語るのだが大事なのだろう。「パワハラだよ」では「なんでもパワハラかよ」で終わるだけでなく、「パワー」を持つ側に「ハラ」を盗まれてさらに沈黙を強いられることになる(自民党議員の言う「政治家へのパワハラ」は政治家どうしのそれではなく、「有権者からのパワハラ」で、おそらくヤジなども想定している)。だから極力名詞をつかわず、たとえば「あなたは今、立場の違いと力関係を利用して、相手を恫喝し、それによって利益を得ています。しかし、本来権限のないことに口を出し、思い通りに動かしているのはあなたなので、慣行として認められるこの状況が続くと、最終的にこの組織全体が不利益をこうむります」と指摘していくのが大事なんだろう。名詞ではいつか盗まれるので。

 こうした事態に際して、単に「バカ」とか言って済ませていると、結局「イエス」と言ったとカウントされてしまってのちのち大変なことになるので、「あなたにその権限はありません」くらいはすっと出るようにちょくちょく練習しておこう。

 そういう練習に良いドラマは『ヴェラ』です。アマプラでシーズン 1 がレンタルできるようになりました。

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