プール雨

幽霊について

歴史修正事件:実家

 父親が死んで葬式というその日に、おじさん(祖父の兄の息子)が「うちで色々支援して始めた商売だったのにこんなことになって残念だ」的なことを話し出しました。父は商売を祖父から継いでいて、そのときその商売がかなり傾いていたことを指しておじさんはそう言ったのですが、私は「何も葬式でそんな話をしなくても」と思い、おじさんを「愚か者認定」したに過ぎなかったのですが、母と叔母は「おじいさんから聞いていた話と違うな」と「嘘つき認定」していたそうです。

 祖父が商売を始めるとき、祖父の実家で支援したという話は、祖父没後にふってわいたので、私もある程度嘘なんだろうなと思ってました。祖父の商売、祖父の建てた家はまことに祖父の人柄そのもので、だれか支援者がいればこうなっていなかっただろうという姿をしていたからです。

 しかし、「支援をした」側のストーリーは語り手の数が多く、影響力・財力に優れていたので、私もまさか彼ら彼女らが意識的に嘘をついているとは思わず、「おじいちゃん、色々迷惑かけたのは事実なんだろうな」と思っていました。何か行き違いがあって、向こうでは支援したつもりだったけれど、祖父の目にはそうは映らなかったということなのかもしれないな、という程度に考えていました。

 さらにそこに、「祖父の最初の配偶者の実家」からも「支援したのに」という声があがり、その商売を精算するにあたって、弟は彼ら彼女らに頭を下げなければならなかったそうです。

 私が変だなと思ったのはこの辺りからで、弟に頭を下げさせたという点ところからです。祖父は支援されたかもしれないけど、弟は支援を受けていないからです。なんで、あんたが頭を下げなきゃいけないの? そして、頭を下げさせるあの人たち、何なの? きもい! とこのとき初めて嫌悪感と疑いの気持ちが沸きました。

 そして時は流れて、祖父没後間もなく三十年かという頃になって、母が一枚の証文を発見しました。祖父が商売にあたり、どこからどのような援助を受けたかということを示すものでした。それは祖父の実家でも配偶者の実家でもなく、この街でその商売を最初に始めた店からの借金を示すもので、商売を始めるに当たってまことに理にかなったお金の動きでした。

 これにより、二つの「実家」の人々の言っていたことは嘘であったことが 100% 証明しきれたとは言えませんが(支援の実態を示すものが「ない」からと言って「支援がゼロだった」という証明にはならないから)、まあ、嘘だったんだなということがはっきりして、私たち祖父直系の家族はさっぱりしたし、「まあ、あのじいさんはほんとにひどい人で、欠点の多い人ではあったけど、親類に頼らず商売を始めたという本人の証言は少なくとも事実であったことが子や孫にはわかって、それはよかったな」という気持ちになれました。

 この話には教訓が二つあります。

 一つ目は「記録大事」ということです。証書が出てこなくても、母や叔母はおじさんたちが嘘をついていることはわかっていました。また、証書が出てきても、おじさんたちは自分たちの嘘を認めません。だから傍から見たら結果は同じなのですが、この場合被害者である母や叔母の気持ちが全然違います。そして証書があったという事実により、戦後、ある不器用な若者が不器用に商売を始め、一度は軌道に乗せて二度目の結婚をし、子どもを三人育て、孫で始終うるさいほどの暮らしに至ったということがよりくっきりします。

 二つ目は「歴史修正の誘惑の恐ろしさ」です。おじさんたちは、社会生活をまっとうに営んでいる、ごくごくふつうの人です。気性の荒い祖父や母に比べれば、はるかにまっとうで、地域から頼りにもされています。祖父や父が亡くなった時点では、経済的にはるかに私たちより余裕があり、その意味では上を行く存在でもありました。

 なのに、祖父、父という当事者たちが口を開けない状態になると、真っ先に歴史修正に乗り出してしまったのです。

 どんな気持ちだったのでしょうか。

 そこには影響力を及ぼせなかったことに対する罪悪感のようなものもあったのかなとは思います。

 祖父はよく実家から何の支援もなかったことを愚痴っていました。大変なときに何も助けてくれなかったと。しかし、祖父はおそらく「助けてくれ」と言わなかったと思います。そういうことを言える人ではありませんでした。特に最初の配偶者を結核で亡くしてしまった件については、よりそうだったのではないかと想像しています。これについてはのちに祖父と結婚した祖母が、彼女が家に来た時点で、まだ結核治療のための注射器などがそのまま放置されている状態で片付いておらず、大変だったと子細に証言していることからも伺えます。

 困っていたときに親戚なのに助けてくれなかったと祖父は後々まで言いつのりました。孫の私が覚えているくらいですから。この、恨み言を言われ続けたという恨みが、祖父没後、親戚の間で爆発して、「いや、支援はした」という話に繫がってしまったのかなと思います。

 でも、どんな嘘だろうと嘘は始末が悪く、嘘をついた人が「嘘だった」と回収することは望み薄です。一回ついてしまった嘘の影響は気持ち悪い感じで、嘘をついた当人の言動を侵していきます。

 私自身はこの嘘をついたおじさんたちと、特段悪い関係ではなかったのですが、やはり嘘をつかれてしまった気まずさがあり、おそらく今後、会うことはないと思います。気の毒なのは同じ地域に暮らしている弟夫婦で、会えばこの人たちから嘘を聞かされ、「うん」と言わなければ離してもらえないわけです。そしてほんとは、弟たちはそのおじさんたちを心情的に頼りにしていた部分もあるわけで、とても複雑な楫取を生活の中で迫られています。

 これと重なる話としては、有名人が亡くなったとき、特に自殺だったときに、テキトーなことを物語化して web に流す行為がありますが、あれも歴史修正の一種だと思います。人が目の前で亡くなるのはそれが誰でも、衝撃的で言葉にならない、言葉が追いつかないことです。そのときに、当事者がもう決して反論できないことをいいことに、言いたいことを言ってしまう。仮にそこに切実な怒りや悲しみがあったとしても、その行為は単純に「嘘」で「悪」です。当事者が亡くなってしまったのを機に、自分好みの物語を流布させようとしているにすぎません。特に極悪人でなくとも、この誘惑はそこここに転がっているようです。大きな暗闇があって、暗闇側では別に私たちを待ち受けているわけではないのに、私たちの方から時に、勝手に、うっかり、はまってしまうのです。

 

 突然ですが、おなかすいたのでおわります。

 

📝 おしまい 📇