プール雨

幽霊について

「私」を鍛える

私への嫌がらせリプで特徴的なことがある。それは、自分の感想を客観的事実として書き換えてリプを送ってくる、ということだ。

「あなたは嫌われています」「誰もこいつの言うことなんか信用しない」「#KuTooは成果が出ていない」「売名行為をしている」「男を貶めるために攻撃している」「世間から忘れられている」「呆れられてますよ」「そんなやり方じゃ共感を得られませんよ」「そのやり方じゃ理解してもらえませんよ」

石川優美オフィシャルブログ 2022 年 10 月 13 日記事「『私の感想』の価値」より)

 弟がネトウヨで「コロナは風邪」論者なんですけど、ヤツがあるとき私にこう言いました。

 「カンヌとか、映画、人気あるって言ってるけど、あれ嘘! ほんとに人気あるのはアニメ!」

 隣で彼の配偶者は呆れていた。私は場を和ますために「あんた、自分で言って笑っちゃってるじゃん!」とからかった。それで話はそこで終わりになったのだけど、弟の言うことって、大体こんな感じなんです。「私」がない。「私」や「自分」じゃなくて、「世間」とか「みんな」がこれを評価している、あるいは、「みんな」がこれをけなしている、といった話し方をする。そして「むっはー」と鼻息を荒くしている。聞かされる方はその、客観的事実を装った根拠不明の文言の前にぼんやりとする以外にない。弟とは会話が続かない。

 「カンヌとか、フェスで大々的に映画を盛り上げているけど、俺が好きなのは実写映画じゃなくてアニメ!」

 って言ってくれたなら、「アニメ好きなんだ。最近はどんなの見てるの?」と人間らしい会話につながったのに。

私は思う。この人たちが、きちんと主語を自分で語ることができていたら、「対話」はできたのかもしれないと。「そんなやり方じゃ世間の共感を得られないよ」が、「自分はそんなやり方だと共感ができない」と言われたら、まだそこから対話が生まれたかもしれないと。

「そんなやり方じゃ理解されないよ」が、「そんなやり方だと自分には理解できないよ」だったら、少しは違ったのではないかと。(同ブログ同記事より)

 「そんなやり方じゃ世間の共感を得られないよ」「そんなやり方じゃ理解されないよ」と相手が言っているとき、どうして「自分はそんなやり方だと共感ができない」「そんなやり方だと自分には理解できないよ」と表明する程度の勇気ももてないのかと悲しくなる。もちろん、私が。私は悲しいと思う。自分の気持ちや考えを言ううえで、いちいち「みんな」や「世間」を盾にしないと話せないなんて。

 「ぽにょ、そうすけ、好き!」ではないけれど、「私は……を好き/嫌い」といった感想を表明しなれていないと、事実と感想の区別もつけられなくなって、自分の口を通して語られることはすべて(権威に承認された)事実だ、個人の感想には価値がないという倒錯した状態に至っちゃうのかなあ。

 「私」を表明しないと、自分がほんとのところ何を求めているのか、わからなくなっちゃうと思うんですよ。何かまとまった表現を目にして「……」と曰く言いがたい気持ちが起きたとき、その、誰のものでもない自分の気持ちについてじっくり考える前に「みんな」や「世間」を持ち出してしまうと、せっかくのもやもやを借り物の言葉で語ることになってしまい、「私」が育たない。

 弟について言うと、「男なんだから仕事と家庭をもつべき」とか、「みんな」から煽られたわけでしょう? あるいは「世間」ではこうだよと脅してくる人がいたわけでしょう?

 それで「男でござい」と、威張っているうちに、自分がほんとは何を望んでいるかわかんなくなっちゃったんじゃないかと、姉は心配しています。

 ひろゆきホリエモンもその他右派論壇の人も、きもい受動態で一般論を装ってデマや誹謗中傷を繰り広げることばかりしていたら、言葉からすればひたすら迷惑でしかないし、みなさんのその不幸、言葉には荷が重いんじゃないかと、私は思う。

 そもそも、もう子どもでもないのに「私は」と語れず、自分の好みも嗜好も思想もそして望みもよくわからないっていうのは傍で見ていて恥ずかしい。などかく言ふらむとかたはらいたし。もし、「私は家柄のよい権力者の犬となり、多くの貧しい人々からわずかばかりの金を吸い上げて、一切の保障をせず、富の蓄積を支配者の特権とする仕組み作りに注力し、被支配層に共有などという寝言は一切言わせない、ただ生まれて働いて死んでいけばよい。それが望みである」と言うなら、そう言えばいいと思います。言って、何の違和感もなく「ああ、自分は人を支配したくてしたくてたまらないのだなあ」と実感できるなら、よし。その道を進めばいい。私は「へえ」ってお返事します。

きれいよ

 

 

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📚 おわり 📚