プール雨

幽霊について

孤立しないということ

 映画『風の谷のナウシカ』ではペジテの王女、ラステルが好きです。ラステルという人が、あの映画のなかにいるということが好きといってもいいです。トルメキアの船に捕らわれていた、「積み荷を燃やして」の一言を遺して逝ってしまった姫君、ラステル。前線にいたペジテの青年がナウシカを見て思わず言った「ラステルさん」の声が切ないです。「ラステルさん」と呼ばれてきた王女と、ペジテの人たちの関係を思うと、くやしくてなりません。

 『風の谷のナウシカ』にはクシャナナウシカ、そしてラステルと、三人の姫君が出てきて、三人ともが数奇で残酷な運命をたどっています。映画の結末ではクシャナナウシカも健在ですが、あのあと、どうなったかを考えると冷え冷えとしたものを感じます。しかしもし、映画の冒頭ででラステルが死ななければどうなっていたでしょうか。ラステルとナウシカの共闘があり、そこにクシャナがかかわれば、一体どういうことになっていたか。

 何度も見てきた『風の谷のナウシカ』ですが、ナウシカに友だちがいないことが不満です。速水真澄にすらいるのにナウシカにいないなんて承服しかねます。ラステルもクシャナナウシカも人生がハードすぎる。ジブリではいくら出来が悪かろうと、サンに友だちができる『もののけ姫』が好きです。友だちといったって、あいつなのですが。ま、しょうがない。

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 王谷晶『完璧じゃない、あたしたち』は声に出して読みたい表現満載でとても楽しい一冊です。

 「すげえええええ! やるじゃん! かっこいー!」

 ぱちぱち拍手しながら女子を見ると、口を猫のフレーメン反応のように微妙に半開きにさせていた。よくよく耳を澄ますと、女子は人間の可聴域ギリギリなくらいの高音の悲鳴をずっとあげ続けていたのだった。

(王谷晶「陸のない海」『完璧じゃない、あたしたち』p.133 より)

  ある人がある人に出会って驚くようなことが起こる。そういう、素朴だけどわくわくする短編が連続する物語集で、思わず声に出して読んだり笑ったり泣いたりしているうちに読み終えてしまい、晴れ晴れとした寂しさが後を引きます。

 おすすめです!

 今、「ある人がある人に」と書きましたが、もうすこしくわしくいうと、女性同士です。たくさんの女性が出てきます。シスターフッドものと呼んでもさしつかえない短編集です。しかし、みんな、女性だからといっておいそれと互いに共感したりはしません。それぞれに、うまくは行かない毎日をどたばたと暮らしている一人の人と人と人……が背中合わせに手を繫いだり、繫げなかったりします。

よしなが だからなかなか一括りにしにくいんですよね。その人の成育歴で抑圧されていた部分というのは皆さんバラバラなので、一人ひとりの好みも、辛い部分もバラバラなんだと思う。だからお互い共感できないところがある。これは差別されてる側はみな一緒ですよね。アメリカにおいて、全部合わせれば白人より多いはずのマイノリティが文化が違うから一緒になれないのと同じです。

三浦 社会的に少数派にまわってしまったら、もう分断されているということですもんね。

よしながふみ三浦しをんフェミニズムはやっぱり関係なくないのよ」『よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり』p.82 より)

 女性の受ける抑圧は多種多様で、 一人ひとり、発達段階に応じてこまめに生存戦略を変えつつ、あるいは固有の何かを貫きつつやってきたという経緯があるので、たとえ女三人寄ったところで、そうそう簡単に共感できないし、社会からは連帯を阻まれてもいます。

 だから、シスターフッドものにカテゴライズされうる映画や小説は、いわゆる男性二人組のバディものとはかなり事情を異にしています。

 『映画秘宝』の先月号はシスターフッド特集でしたが、真魚八重子が対談でそのことを指摘していました。

真魚 本当にいまは一年ごとに状況が変わってますよね。(中略)シスターフッド映画とカテゴライズできる映画は多いけど、定義するには非常に流動的な話題だなと思います。

—— 女性同士の連帯を意味する「シスターフッド」という言葉は最近よく使われますが、もとは「義姉妹のような関係」という意味ですよね。ただ、それが映画に対して使われる場合、ブラザーフッドの裏返しとは単純に言えない気がします。

真魚 反転ではないと思います。

(「真魚八重子澤井健シスターフッド映画 爆走対談!」『映画秘宝』2021 年 2 月号 p.19 より。強調は原文)

  このことについて真魚八重子は「発展途上のシスターフッド映画」(『文藝』2020 年秋号)で詳しく論じていました。シスターフッドの映画は「男性のバディ映画の作り替えが頻繁にみられ」、まず「その中で女同士の連帯という新たなストーリーはどのように取り入れられるのかというのが、大きな課題」で、今は「男性的な規範、女性的な規範の教育。それが映画にも大きく影響し、男女差と、男女の未分化に関する雑音を生んでいる」状況だといいます。

  男性のアクション映画だった『マッドマックス』シリーズが、男性の主人公マックスをおきながらもフェリオサという女性主体の物語となったように、女性映画は男性映画から派生していく。そして『アトミック・ブロンド』には『ジョン・ウィック』にはなかった女同士の濡れ場が加わって、やっと一本の映画として送り出されるのが、いまの現状だ。

真魚八重子「発展途上のシスターフッド映画」『文藝』2020 年秋号p.306より)

 あえて、「私たち」と言ってしまいますが、私たち女性は、何でもマイナスから始めなければいけないという問題があります。それは拒否することから始めなければいけないということとも重なります。

 私たちが生きているのは男性によって作られた社会と歴史です。その先端に立って、ある女性が一歩足を踏み出そうとするとき、それがどのような一歩であっても「どうして?」と聞かれます。

 今はそんなことがないと信じたいのですが、私が大学に進学したいと言い出したとき、「女の子なのにどうして?」と聞かれました。説得したり説明したりするのは大変でした。大学院に進学したいと言い出したときには大騒ぎになり、大学の先生にまで「結婚できないぞ」と脅され、そしてさらに、就職したらさすがにこの手の「どうして」はなくなるかと思いきや以降も続くのでした。

 「一歩足を踏み出す」のはなにも進路的なことにとどまりません。考えること、学ぶこと、試してみること、反省すること、思い悩むこと……それらすべてにいちいち「女性なのにどうして」と聞かれ、考えるな、学ぶなと言われるわけで、はねのけてゆっくり考える環境を保持するのに女性は気力も体力も必要で、そこで立ち止まってしまうことも多いです。

 私たちはただ、それぞれに「自分だけの部屋」がほしいだけなのです。

 変だなと思うことは受け入れられない。

 いじめには絶対加担したくない。

 自分自身を傷つけるものと人生をともにはしたくない。

 自分で自分を軽んじることから抜け出したい。

 そんな、当たり前のことを口にするたび、「それくらい我慢しなさい」「どうしてそんなこと考えるの」といわれてしまう。「なぜならば」と話しているうちに時間が経ってしまう。その間に自分自身が、あるいはだれかが、その人生がどんどん損なわれていく。

 だからシスターフッドは、まず戦略としてどうしても必要になります。

 ばらばらに分断され、決してすべてにおいて共感できるわけでもない私たちが背中で互いの気配を感じながら生き、時に顔を合わせて喧嘩したり励まし合ったりする。そうすることでしか、分断されているということや、分断の仕組みは露わになっていかないと思います。

 私が今、たった今「シスターフッド」と聞いて連想するのは昨年読んだ『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』です。

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「よかった。そんじゃ、なんかあったら〈ベルズ〉のブライト・アイズ・ケイトのことを思い出して。あんたの母さんの友だちは、あんたの友だち。覚えといてね」(p.97)

「ああミス・ジキル、それを先にお聞きしたかったものだ」とホームズが言った。「あるいは手紙をご持参くだされば、この目で読むことができたのですがね」

 メアリは赤面した。(中略)

「なんでメアリがもってこれたわけ?」ダイアナが言った。「あんたが興味を示すなんて来てみるまでわからなかったのに。だいたい今日は朝からずっと雨が降りっぱなしだったじゃん。こんなときに大事な手紙を持ち出すなんて、ばかしか考えつかないっての」

 ホームズは笑みを浮かべた。(p.161)

  ジキルの娘、ハイドの娘、モロー博士の娘、フランケンシュタインの娘、ラパチーニの娘。彼女たちがよってたかってロンドンの街をかけめぐり、助け合い、語り合い、それをモロー博士の娘、キャサリンが小説にまとめあげようとしているプロセスが描かれます。

 だから、軸は二つあって、一つは事件を捜査、解決していくプロセスで、もう一つは、それを物語る彼女たちが抱えている語りの必然性です。特に、書き手であるキャサリンの動機が明らかになる終盤の迫力はすごいです。

 このキャサリンがいる地点は、『文藝』2020 年秋号に収められた小澤英実「抗体としてのシスターフッド」の次のような宣言と重なります。

 このようにあまりに多様にちらばる点たちを、どのように線で繫いでひとつに括り、また解き放てばよいのだろう。いま私に言えるのは、小説を共感ベースで読むべきでないのと同様に、共感を拠り所にした連帯で女たちひとりひとりの〈自分だけの部屋〉を植民地化してはならないということだ。(小澤英実「抗体としてのシスターフッド」『文藝』2020 年秋号 p.138 より)

 連帯なしには生まれえない、一冊の本のバトンを誰かが受けとめ、その人が再創造した言葉と思考が社会に環流していく。これは私自身の身に起き、生きる糧となったシスターフッド体験だ。あるいはもし、連帯に入り込めない人間がホモソーシャルゾンビであるなら、私は喜んでそんなゾンビの一員となり、新たな王国の建設を目指したい。(同 p.139 より)

  今朝、映画『ドリームガールズ』を見ました。モータウンレコードをモデルにした、三人の女性が引き裂かれてまた手を取り合うまでのシスターフッドものです。エフィ、ディーナ、ローレルの三人が和解する過程でのディーナの行動はかなり思い切ったものではありますが、それをエフィがすっと受け入れるのがよかったです。それぞれに苦しんだ時間があって、それを共有してはいないものの、互いの部屋からそれをうかがい知ることができる。そして、手を取りあう。

 一方、プロデューサーのカーティスは自分たちの音楽が白人に盗まれてきたことで DJ の買収に打って出、成功します。そして彼のレーベルは最盛期を迎えるのですが、今度は自分がかつての盟友の音楽を盗んでしまうのでした。彼の側から見ると、最後には積み重なった過ちに一挙に復讐されることになり、さみしいものがありますが、そんな彼にも過去からの贈り物はあり、強靱なので、ま、なんとかするでしょうという雰囲気があります。

 現実にモデルがいる話なので、出来事がふんわりと入り組んでいて全体として駆け足に感じるのですが、エフィ、ディーナ、ローレルが「自分だけの部屋」を守ろうとしたり、明け渡してしまって後悔したり、そこからもういちどつくっていこうとしたりする、そんな姿が痛切かつ痛快でした。

ドリームガールズ (字幕版)

ドリームガールズ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 突然ですが、おしまい。