プール雨

幽霊について

「右か左か」は問題じゃない?

 いつも気になっていることは、搾取されたり、沈黙を強いられたり、暴力をふるわれたりしている人たちのことです。つまり、虐げられている人びとのことです。

 虐げる仕組みをつくり維持管理に努めている側に立っている人は、「右か左かは関係ない」という言葉を「『上』をみんなで支えるのが『合理的』」という主張のために用います。虐げられている側に立っている人(自分が虐げられているという自覚のある人)は、「右か左かは関係ない」という言葉を「問題は、上と下に別れていること、つまり格差と貧困だ」という主張の枕として言います。

 しかし表現としてはどちらも「右か左かは関係ない」であるため、大変混乱します。

 理解するには、言っている人が「上」から言っているか、「下」から言っているか、都度都度確認しなければいけません。この一手間が大変な場合もある。

 ややこしいのは、「抵抗」「革新」といった言葉が政治権力側に盗まれてしまって長い時間が経っているため、盗まれた瞬間を見ていない人には、たとえば女性の活動家、または社民党共産党の女性政治家のように、何重にも差別にさらされている人びとが、「余裕のある人」のように見えているということです。「人を助けようとする人は余裕のある人」という偏見を、企業や新興宗教団体と一体化した政治権力が煽り育てたからです。差別している側の「権力と資力があり健康な男性による社会統治を唯一の解とする」という考え方は、この世にドロップされて日の浅い人には不可視で、「上」からのヘイトは「自然」や「天然」に属するもののように見えるでしょう。

 政治権力が問題にするのは「左」です。かれらは「下」を「右」と「左」に分断し、「左」を指さして「攻撃せよ」と煽っています。「上」は右も左もないわけで、今や右か左かを都度都度尋ねられ告白させられるのは「下」の人間です。「右か左か」の嵐は「上」が意図的に起こし、「下」がそれで惑わされ、時に「右でも左でもない」と言わされるはめに陥る。それ以前に「下」なのが重大な事実なんですけど。

 だれがだれを虐げているか。つねに主語を明確に、極力能動態で「企業、新興宗教団体と一体化した政治権力が貧しい人びとを虐げている」のように表現する必要があります。それを「左だ」と言って単なるスタンスの問題に矮小化する行為については警戒しなければなりません。「分断をこえて」だの「右か左かは問題じゃない」キャンペーンの目的は「左」を攻撃すること。でも、「戦争反対」とか「環境大事」とかそんなのは当たり前の、生存の基本であって、右とか左とかスタンスの問題じゃない。「生きたい」「元気になりたい」と発言しただけで「左だ」と指さされ攻撃される。現状、「辛い」って言ったら自動的に「左」呼ばわりされて攻撃されるわけで、これが「虐げる」ってことの一部でなくて一体、なんなんだろう。