芸能山城組公演を見てきました。
舞台が始まるまでは写真を撮ってよいとのことだったので、ジェゴクを撮影しました。ジェゴクとは、舞台上にずらりと並んでいる竹製の楽器のことで、とってもきれいな響きをもっていて、互いに響き合うことでその音が増幅されていくと、ふぁ〜っとよい気持ちになります。バリ島の楽器です。
トランス効果に満ちる会場で、すやすやと眠ってしまいました。
わたくし、平素より、トランスものでは抵抗むなしく眠ってしまう傾向があり、席に座ったときから「これは、寝るんじゃないか」と予感していました。
果たしてそのとおりで、起きては「すごい」、「すごい」と思っては寝るという繰り返しで、三部構成の第二章が終わるまで寝ていました。会場の照明がついて休憩に入ったときは、完全に頭が冴え渡っており、第三章の「逢燦杰極幻唱(アキラじぇごぐげんしょう)」では元気いっぱい、音楽を楽しみました。
その、眠っていた第二章で「いま、なぜトランスが地球に必要か」というお話があったようなのです。全部眠っていたわけではありませんが、おおむね寝ていたといえる状態でも耳に届いていたものはありました。それはこういうお話でした。
近代化の過程で平準化されてしまった私たち。それは人間が巨大資本や政治権力にとって、産業に都合のいい部品に、または納税と徴兵の駒になってしまうことを意味しました。そこには生きる喜びも温かみもなく、私たちはただただ働かされ、奪われています。私たちが喪ったのは、個としての喜びだけでなく、私たちがどこからやってきて、ここで共に何をして、そしてどこへ行くかという、繫がりの営みです。私たちはいま、個々にばらばらに、孤独で、利己的な人生を生き、結局は自分自身と、この地球を損なっているのです。そんな私たちを癒すのが忘我の境地、トランス……
……
と、そういうことではなかったかと。
そして、このライブは大変立派なパンフレットがついており、そのパンフレットによれば、トランスをもたらす視覚的な条件として、ぬいぐるみや猫のような、かわいいものが考えられるのだそうです。
なるほど!
納得が行きました。ざべすたちを見つめているとき、どうも脳下垂体の辺りからなにかがどばどば出ていて、「いま、寿命が延びている……」という感覚があったのです。
私は日常的にトランスしていたのですね。
なるほど。ぬいぐるみや猫ちゃんとの暮らしは、近代社会の袋小路に生きる我々にとって、再び共に生きる道を手にするための入り口だったと。
すばらしい話を聞きました。
そしてアキラはいつ聴いてももりあがります。すっごく楽しかったです。
街はもう、クリスマスでした。
楽しそうな街です。
忘我の境地はおねむになるけれど、確実に健康によいようです。
🎶 おしまい 🎄