春頃からテレビで見ていたアニメ『赤毛のアン』。途中で色々あって休み休み見て、ついに昨夜、最終回の第 50 章「神は天にいまし、すべて世は事もなし」を拝見できました。
最終回は原作第 38 章「道の曲がり角」後半の 6 頁半(松本侑子訳、集英社文庫版 p.442-448)に相当します。
「200 ポンドの体重を二本の足で持ち運ぶのは容易ではないよ」と言うリンドのおばさんが歩いてくる姿と、彼女の姿がアンとマリラの目に入ってからアンたちのところにたどり着くまでの時間は「なるほど、ひとくろうだ」と感じるものでした。
ああ、レイチェル・リンド! 毎日マリラに顔を見せてくれる、事情通でおせっかいな、200 ポンドの体でときには走ることもある、善き人よ。大人になって、あなたが大好きになりました。
このレイチェルに「働きながら勉強もするだなんて死んでしまうよ」と心配されて、アンは「『ジョサイア・アレン』のおかみさんの言い草じゃないけど、「ほんどほんどに」やるつもりなんです」と返事をします。この「ほんどほんどに」をカットしないのが高畑版のすごさだなあと思います。松本侑子版で注がついている箇所です。
「ジョサイア・アレンの妻」の口癖みたいに、「ほどほどに」やるわ(p.443)……As "Josiah Allen's Wife" says, I shall be "mejum". ジョサイア・アレンの妻とは、アメリカの女性作家マリエッタ・ホーリー(一八六三〜一九二六)が生み出した人気小説のヒロイン、サマンサのこと。『サマンサ、人種問題を考える』(一八九二)、『ベツレヘムのサマンサ』(一八九〇)、『ヨーロッパのサマンサ』(一八九五)などの方言喜劇がシリーズで書かれ大人気を博した。ホーリーは、女性の権利、禁酒、労働者の搾取、人種対立について、ユーモアと方言を交えて小説を書き、本人も、ジョサイア・アレンの妻、サマンサ・アレンという筆名で執筆した。アンも、サマンサの真似をして、なまりを語ってみたのだろう。mejum というのは、あらゆる辞典に出ていない。語感からmedium の方言ではないかと考えて「ほどほどに」と訳した。
読む場合には注が必要な箇所を、そのまま放送した高畑勲版の見識にしみじみしてしまいます。
アニメ版を見ていると、これを見る子ども達のために、 19 世紀のカナダで生きる人々の暮らしが原作に忠実に、そして原作には描写されていない隅々まで、具体的に描き上げられていることに感動します。それは駅のホームに上がるときにマシューが靴の裏の汚れをステップにこすって取ろうとするところや、夕方になるとどの家も薄暗くなってしまうところ、麦の干し方、芋の貯蔵の仕方、長靴の脱ぎ方、小川で牛乳を冷やす方法……と、上げていけばキリがありません。そしてすべての章に通じて言えるのは、話している側だけでなく、話を聞いている人たちの表情が実に生き生きしていることです。
アニメ版最終回と原作最終章はすみずみまで重なりますが、アニメには二箇所、大きな追加があります。それは、アンの決心を知ったミス・バリーがアボンリーにやってきたということと、ミス・ステイシーとステラからの手紙です。
アンがバリー家に行くと、ミス・バリーがいて、アンの進学について問い詰めます。このシーンはアニメのオリジナルです。ミス・バリーは、もしマリラが進学を止めているなら許さない、マリラがいくら高齢だと言っても自分に比べれば小娘だ、まだ若い、それなのに養子でもないアンの進学を引き留めてそばにおこうだなんて欲張りだ……云々と滔々と述べます。この間、横で話を聞いているダイアナのお母さんの「おばさんったら、こまったわ……」とでも言いたげな表情や、ダイアナの真剣な表情、それが刻一刻ゆらめくのが魅力です。そして、ミス・バリーが話している間、ずっとアン・シャーリーがだまって聞いている、その表情も美しいです。
アン・シャーリーは第一話でマシュー・カスバートに話していていいよ、と言われてとても歓びます。黙っていろと言われたことは数限りなくあるが、話していいと言われたのは初めてで、とてもうれしいと。また、マリラと馬車に乗りスペンサー家に行く道々で、アンの話を聞きながらおしだまってしまうマリラの横顔も印象的です。最初はアンを孤児院に帰すしかないと思っていたマリラは、アンの話をじっと聞くにつれ、気持ちが変化していくのでした。
話をして、聞いてもらう。返事がある。そして今度は相手の話を聞く。また話をする。その繰り返しのなかでアンは大きくなりました。
ミス・ステイシーとステラからの手紙にはアンの奨学金獲得や大学進学について書いてあり、アンは穏やかな表情でそれらを読み、一人、部屋で返事をしたためます。原作ではこの場面はありません。
クィーン学院から帰って、ここにすわった晩にくらべると、アンの地平線はせばめられていた。しかし、これからたどる道が、たとえ狭くなろうとも、その道に沿って、穏やかな幸福という花が咲き開いていくことを、アンは知っていた。(前掲 p.448 より)
アニメは、アンが恩師ミス・ステイシーと友人のステラにあてて、曲がり角のむこうには新しい世界が広がっているだろうと自身の言葉で手紙に書き、「神は天にいまし、すべて世は事もなし」と確信をもってつぶやいたところで幕をおろします。羽佐間道夫のナレーションで始まったこの物語がアン・シャーリーの声で終わり、この 5 年間のことが一挙に蘇りました。『赤毛のアン』は想像力と夢で何とか日々をやりすごしていた少女アンが、彼女なりの文体と声とその話を聞いてくれる家族や友人を得て、その幸福を自覚するところで終わったのです。この後、どんなことがあるんだろう、どんなことをするんだろうと、いよいよ先が楽しみになってしまいます。
アンは白いリンゴの花が咲く季節にアボンリーにやってきて、まずマシュー、そしてマリラという聞き手に出会い、ついでレイチェル・リンドという善き隣人に出会います。
このリンド夫人がアンに最初にプレゼントしたのが、水仙の花でした。白い水仙の花は 6 月になるとアンのまわりで咲き、つねに彼女のそばにありました。
マリラがリンド夫人の家を出ると、アンは白い水仙を両手で抱え、ふくいくとした香りの漂うたそがれの果樹園から、姿を現した。(同 p.110)
「アンは、まるで六月の白百合みたいだね。ほら、アンが水仙(ナルシサス)と呼んでいる花のことだよ」(同 p.360)
アンは笑うと、花束の中からしおれた「六月の白百合」を抜いて、ダイアナに投げつけた。(同 p.419)
アンは、両手いっぱいに白い水仙をかかえ、玄関から入ってきたところだった———それからしばらく、アンは白水仙(ナルシサス)の花も匂いも愛でることができなかった——。(同 p.425)
「六月の白百合」と呼ばれたり「白い水仙」と呼ばれたりしているこの花は同じ水仙のようです。アニメには水仙を指す「白百合」という言葉は出てこないのですが、白い水仙は忠実にアンのそばにありました。
特に印象的だったのは、第 45 章「栄光と夢」で 、「アンはステラに夢中だってジョージー・パイが言ってたわよ、私のことなんて忘れちゃったんでしょう」と言うダイアナにアンが白い水仙を投げつける場面です。久しぶりにゆっくりと話す二人の間をぽーんと跳ぶ水仙がダイアナのスカートの上にへなっと落ちます。そしてアンはダイアナへの愛は「この水仙のように簡単にしおれたりしないわ」などと言うのでした。花をなげつける、それを受け取る、しかもそれが水仙であるというところにちょっとどきどきしてしまいました。
テレビで放送されたことで、久しぶりにゆっくり『赤毛のアン』を見、そして読むことができて楽しかったです。
日記を確認したら、前回読み返したのは 2014 年でした。このときは白百合って呼ばれたり水仙って呼ばれたりするこの花のことはさほど意識していませんでした。アニメを見て、レイチェルが「アンは白百合のようだ」と言う場面がカットされていることに気づいて初めて、そのすらりとした白い花がありありと目に浮かびました。
おしまい