高尾山をご存じで?
高尾山は都心から一時間くらいで行けて、標高 599m の、「たまにはいっちょ、大自然に包まれたい」と思いついてしまった人が気まぐれで登るのに最適な山です。
いえ、「最適な」というか、そんな山はなかなかないわけで、「唯一の」と言い直しましょう。
たま〜に高尾山には行っているのですが、そんな感じ(都心から近く、山としてはそれほどハードではない)なので、すれ違う人々の恰好も、いかにも登山らしいいでたちの方から町歩き程度の方まで色々です。
柘植文の名著『中年女子画報』には「中高年の趣味といえばまずは登山」とあります。
なるほど。そうかもしれません。私も中高年と呼ばれるにふさわしい季節を生きていますので、たしなみとして山を登るのもいいでしょう。時節柄、大都会に出かけるのはおっくうであり、しかし家の中にばかりいては筋肉が溶けますから。それに平日の午前中に行けばさすがにがらがらでしょう、と高尾山散歩に参りましたら、そこは私と同じようなことを考えた皆さんで溢れていたのであります。
高尾山をなめていました。
おまけに、小中学校の遠足ともぶつかり、あちらこちらからお子様たちの鳥のような美しいお声が聞こえて参ります。人々の織りなす流れが時速 4km の川のようでした。
高尾山山頂に参りますには、まず選択を求められます。それは大雑把に言って、「いい感じのところまでケーブルカーまたはリフトで行くか、歩くか」です。
歩いて行ってみることにしました。
しかし、私はここに来るまでの間、駅の階段を登るだけでも息が切れていたような人間です。平素、基本的に机に向かっておりますので。机に向かっていないときはスクリーンやモニター的なものに向かっておりますので。そのとき、足は飾りと化しておりますから、こんなときだけ急に動いてくれと言われても動いてくれないのです。
しかし、ここでまた「しかし」で恐縮なのですがしかし、路行く人の多くは私よりさらに年齢高めの諸先輩方ばかりで、だれも、私のように息を切らしてはいないのです。恥と焦りを感じます。だから私は疲れたというそぶりをなるべく外に出さないようにし、景色を眺める体を装って休み休み登りました。
写真の数だけ、休憩しました。
山路を登りながらこう考えた。
まじかよ。
もうもどれない。
だが前にも進めない。
苦行。
なのに登り慣れたご老人はおっしゃる。
「登りはいいのよ、まだ。下りが、足ががくがくいっちゃって」
なぜ、そんなにまでして登るのですか。
登り始めたときは「お散歩」とか言っていましたが、ほとんど勤行でした。今なら世界平和を祈る資格がある。そんな風に意識が朦朧としてきたころ、ついに展望台に到着しました。
ここから山頂まではあとひといきです。
後ろにいた中学生が「おまえ、なんでそんなに優しいの?」とぬきさしならぬ会話をしていました。こんな状況でそんな会話ができるとは恐るべき体力です。
くじけそうになったこともあるけれど、そしてくじけてもどうにもならなかったので足を動かすしかないという境地に至ったこともあるけれど、山頂までやってくると「あ、ここ、来たことあるな」と記憶が蘇りました。前回は今回よりひょいひょいと来たということですね。
そして心置きなく下りまして、
結局酒を飲みました。
イカリングフライ、唐揚げ、焼きそばなど、どれひとつとして特においしいものはなかったのに、全体として大満足という不思議な事態でした。高尾山で食事というとやはりそばを食べたくなるのが人情ですが、こういうのも楽しくてよいのではないでしょうか。
復路はリフトに乗ることにしました。
というわけで、登って、半分くらいくだってお酒飲んで、そしてくだって、帰ってきました。高尾山を全体的になめていました。あんなに混んでいるとは。そして、あんなにきついとは。さすが山。
🗻 おしまい 🗻