プール雨

幽霊について

『ジョン・ウィック:コンセクエンス』を見ました ⑵ ファイナル

 とにかく、「犬にひどいことをすると世界は壊れる」という世界で犬にそういうことするからそういうことになるんだよ。

 呆れたワ。

 なにがどうしてそうなったか、そもそもの始まりをちゃんと知らないからそういうことが起きる。

 そもそも。「そもそも」が大事です。

 そもそも、なぜ、こんなことになったのか。それは

  • 歴史どころか事情すら知らない若造が
  • 相手の話も聞かず我流を貫き
  • ジョンの大事な犬を死に至らしめ
  • 自分も死んだ

 というわけで、この起源に戦慄する能力のないヤツはここから立ち去れ。

 そして、この話は一旦脇に置いといて、私は驚いた。

 二作目、三作目の話をあんまりよく覚えていなかった。映画が始まる前、「これまでのジョン・ウィック」という映像が流れ、かいつまんで説明してくれるのですが、大分前に自分が、ジョンの行動の理屈を見失っていたことが判明しました。

 「あれ、これ、なにがどうなると『おしまい』なんだっけ?」

 と、二作目でも三作目でも思っていた気がします。

 それがこの四作目の大阪のシーンにいたって爆発しました。大阪にはジョンの盟友、シマヅ・コウジ(真田広之)とその娘、アキラ(リナ・サワヤマ)がいます。「ジョンの友人はもう、残り少ない」という主席連合側の読みはばっちり当たり、ジョンはまんまとそこにいたのです。

 アキラは言いました。

 「なぜ、ここに来たの」

 私は思いました。

 「ほんとだよ。なんで来た?」

 二作目と三作目で何が起こったか思い出せない。思い出せるのは、鏡がいっぱいあるお部屋で銃撃戦になったことと、お寿司屋さんに猫がいたこと。ジョン・ウィックは犬映画ですが、猫ちゃんにも秋波を出していた。

 しかし、私はそんな、観客として相当追い込まれた局面でも、実は猛烈に感動していたのです。

 マスクに覆われた口をさらに両手で押さえていました。

 なぜなら、ドニー・イェンが! ドニー・イェンが登場した瞬間、「あ!」と思わせるドニー・イェンが帰ってきたからです!

 ヒーズバック!

 う、登場しただけで胸が高鳴るドニー・イェン、久しぶり……!!!

 ドニー・イェンドニー・イェンだ……!!!

 強さ、優しさ、明るさ、そしてさみしさ。

 話しかけたいけど、話しかけられないその横顔。

 でも、話しかけたらきっと優しく答えてくれると思う。

 でも無理。

 ドニー・イェン、今般の名前はケイン。娘を人質に取られているので主席連合の言いなりです。

 ひどい……。許せない。あの若造(ビル・スカルスガルド。今回も悪役)。なにもかもむかつく。

 ケインにジョンを殺せという命令が下るのはなぜなのか。ケインは盲目ですが、彼が盲目になった経緯にも主席連合はからんでいるようです。なぜそんなことが許されるかさっぱり想像つきませんが、盲目になった経緯と娘が監視されている現在、そして親友、ジョンを殺さなければならないというこの現実はすべて関係があるようです。

 もしこれらの複雑な絡み合いがなければケイン=ドニー・イェンは宇宙最強です。誰が見たって、登場した瞬間「あ!!!」と思うんです。でもケインには身体のハンディキャップとしがらみがある……。

 ああ

 ああ

 ああ……!!!

 しかしケインはめちゃめちゃ強いので、そのしがらみの重さがあって初めてみんなとどっこいになるんです。そうじゃなかったらウィンクばちーん! 指ぱちーん! で宇宙も過去も未来も征服してしまうので。

 ケインは優しいのでそんなことできないんです。

 銃撃戦が始まってもおっとりと麺料理を食べているくらい……なんでしょう、よくわかりませんが、あのシーン、シルエットだけで息がとまるほど笑った。

 この思いを書いているとこれで日が暮れる。

 いくらでも言えるがここまでにしましょう。

 つまりケイン=ドニー・イェンが美しかったと。

 でも、ドニー・イェンって、どんな映画でもこの美しさを放ってきたわけではなく、「あー?」とか「うーん」とか「ああ……」というときもあったのです。ドニーのような輝きをもつ人をつれてきておいて、そんな腐れ映画しか撮れないなんて、間違っていやしませんか? というときもあったのです。

 私は日頃、人間が大勢集まってそこに権力資力の集まった状態ができあがるとろくなことにならない、強い人間はもっとばらばらになあれ🌟 と思っています。

 会社にいたころは、思っていました。「この会社の実力って、社員の実力と努力の総和に遠く及ばない。なんでだ?」ってね。同様に「この映画よりドニーひとりの方が大きい」「この映画から真田広之はみ出てるじゃん」「ミシェル・ヨーつれてきてそれって、ばかなのか?」などなど打ちひしがれてきました。

 人間ひとりの方が映画会社より全然大きい。

 人間ひとりの方が国なんかより全然大きい。

 このまま、真田広之が若造のせいで死ぬ映画を重ねて、その負債を映画界はどうやって支払うつもりなのか。映画関係者はそのことについてじっくり考えて恥と恐怖を知ってほしい。

 昔の人は言いました。「人材? そんななあ、人間を資材のように扱いけちくさい発想で、ほんとうの仕事なんかできると思ってるのか? 人にはそれぞれ、必要な時空間とふさわしい待遇というものがあるのだ。それがわからないヤツは組織などつくるな」ってね*1

 このように私の気が大きくなり、「人間ひとりの価値は無限大である」「組織とかいう貧乏くさいものは必ず人間ひとりの価値に劣る」という気持ちになったのはすべて、このジョン・ウィックシリーズに流れる高潔さのおかげです。

 「ウィンストン」「ジョナサン」と名前を呼び合う二人の声を思い出すだけで胸が熱くなります。

 ところどころ笑ってしまいました。笑って泣いて、ジョンと、コウジと、ケインと、ウィンストンと、キングといっしょにコーヒーを飲みました。

 ありがとう、ありがとう。

 アキラ、がんばれ〜!

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🌸 おしまい 🌸

*1:おそらく「史記」を熟読すれば、そういうことが書かれていると思う。