プール雨

幽霊について

鹿紙路『玻璃の草原(くさはら)』を読みました

 土地勘がある!

 小説を読んでいて、たまに「あ、これはあそこだな」と土地勘がはたらく場面に出くわすことがあります。読んでいるときに明確に映像を想像するわけではないし、文字から想像する経験と映像などから想像する経験は結構違うので、土地勘があってもなくても結局はそんなに変わらないのですが、小説を読みながら「ここは私も歩いたことがあるのだろう」と想像するのは楽しいことです。

 『玻璃の草原』は 九世紀、武蔵国多磨郡が舞台で、行こうと思えば歩いて行けるがこの小説の主人公達と違ってもはや私にその発想はない……いや、行けるかな? という距離感です。

 頭の中でビルをなぎ倒し、アスファルトをひっぺがし、埋められた川と人工的な道を元にもどし、うっすら残る古代の道を探しました。

 ヤマト政権の支配域が広がる世紀のなかで、奪われ、殺され、拉致されてつれてこられた人びとと隣り合って暮らすヤマトの少女、糸(いと)。その糸がある日偶然エミシの少女、野志宇(のしう)と出会います。その少女たちの背中には支配した側と支配された側の現実が重くのしかかり、二人は互いのことを隠しながらひそかに関係を紡いでいきます。

 そのときの糸の、きれいだ、好きだ、会いたいと野志宇に向かっていく言葉と足がまっすぐで印象的です。野志宇もびっくりしていました。

 この物語は「好きだ」とか「会いたい」とか、または「おもしろい」といった感情を燃料に動いていきます。

 もうすこし正確に言うと、楽しむことや将来をあれこれ計画すること、夢見ることなどがあらかじめ奪われて抑圧されている世界で、それでも奪うことのできない人びとの出会いが事態を大きく動かすきっかけになります。二人があることを決断する場面は感動的でした。それまで二人が想像したこともないような、別の道。隘路の奥で小さくなってつかんだ、新しい道。

 政権の支配が及ぶへりとへりとへりの部分の、少し重なったところでそれは起きるのでした。

 ヤマト政権は自分たちがエミシから生産の場所や手段、命を奪い、無理矢理移住させておきながら、エミシの反乱を恐れ、警戒しています。そのことを野志宇は「ばかばかしい」と思います。

 ばかばかしい、とわたしは思う。ヤマトびとが奪い、殺したせいでここにいるのに、ヤマトびとはわたしたちを恐れている。そういうことなら、最初から陸奥に攻め込んだりしなければよかったのに。(鹿紙路『玻璃の草原』p.62)

 行政の煽動で起きた関東大震災時の「朝鮮人」虐殺にしろ、アジア太平洋戦争後における、日本国籍になっていた朝鮮の人たちに対する酷薄で恥知らずな処遇にしろ、根底にあるのはこの「自分でやったことのツケが自分に回ってくる恐怖」ですよね。

 ばかばかしい。

 「他者を支配する」ということについてまわる厄介さの正体は結局、自分自身の醜い姿なのかもしれません。罪深い起源から目をそらして罪を重ねることの徹底した不正義。

 今朝、ふとんの中で「自分はゆがんでいる」と思いました。

 全然子ども達の誕生や成長を祝えない自分はゆがんでいるんだと思いました。ゆがんだ世界に生きているので、私もゆがんでいる。生まれてくることや生きていくことをまっすぐに祝えないし、かれらを支える言葉が出てこない。

 糸の言葉はそうではなかった。

 支配する側の言葉は残りやすい。自ら改竄し、「修正」していく力すらある。支配する側が承認した人びとの言葉も残りやすい。検閲との戦いはあれど、読んで書けること自体がひとつの力です。そうして残された、支配構造の中から生まれてきた史料群を読んで、史料に残らなかった膨大な外部の、その膨大さに恐れをなします。

 ……。

 そうか、読んで、歩いて、学んで、そして書けばいいのだなと感じたのが『玻璃の草原』の読書体験から得られた喜びです。「読んで、歩いて、学んで、そして書けばいいのだな」と思ったその瞬間は、まっすぐだったように思います。

いい天気

 昨日は公園でお昼にファミマ御膳をいただきました。

ファミマのフルコース

 なんらかの実が生っている木の下を歩きながら、

なんでしょう

自分のゆがみとたたかっています。ゆがみを自覚するにはまっすぐな言葉が必要です。

いい天気

📚 おしまい 📚