プール雨

幽霊について

『勝手にふるえてろ』

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とどきますか、とどきません。光りかがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元にころがるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです。             

          ……綿矢りさ勝手にふるえてろ』より、冒頭部分

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綿矢りさは新作を楽しみにしている作家で、『勝手にふるえてろ』も楽しくこそこそと読みました。開いたり閉じたりする表紙があって(つまり入り口と出口があって)、一人で読むしかなく、読んでいる間は他に何もできない、本という形態によく合った、ひそひそとした話が彼女の得意技で、であればこそ、映画化のニュースを聞いたときは「どうなるのかな」と思いました。映画は見ず知らずの人々と一緒に見るものだし、暗いところで見るとは言えちょっと気まずい思いをしそうだなあと、そんな心配をしていました。

たとえば、『ブリジット・ジョーンズの日記』は、小説と映画とでかなりトーンが違っていて、私は映画の方がちょっと苦手なのですが、なんでかなあと考えてみるに、小説の方はやっぱり一人で読むので、ためらいなくこの、日々じたばたしている女性の話にがぷりと寄り添えるのですが、映画だとすこし離れたところから見てしまうようなのです。原作は日記スタイルで、日々の彼女の失敗が「ああまたやってしまった」「反省した」「またやってしまった」と綴られていき、どういうわけか読んでいると読者である自分自身が日記帳それ自体であるような気分になってきて、「自分だけに打ち明けられている」という気持ちがするのです。それに、なんと言っても日記に「やってしまった」ということを書いては「明日からは」と決意表明を繰り返す彼女のことを考えると、書いていない部分も想像してしまうわけで、なんとかかんとか働いて生きているわけだから、傍から見たらそう、むちゃくちゃな人でもないんだろうとも思えるわけで、でもそれが映画だとほんとにむちゃくちゃな人で。

そういうことがこの『勝手にふるえてろ』でも起こってしまうのではないかなと心配していました。

原作の冒頭で、語り手=良香(よしか)はいきなりやけっぱちで、やけっぱちにもかかわらず「です・ます」の敬体で、そこに日々、彼女がその人生においてどこをどうして正気を保ってきたか、どうやってプライドを維持しているのかといったことがほのみえておもしろい。

この、内面では言葉が次から次へと出てきてとても饒舌で、じたばたあくせくしていながら、同時にきわめて堅実に暮らしている社会人であり、それなりに人間関係も安定してはいる良香さんがそっくりそのままスクリーンの中にいるのがおもしろかった。小説を読んでいるときに感じる親密さや、くすぐったい感じ、じれる感じ、恥ずかしさいらだたしさ、じんわりとした明るさがそのまま映画になっていて、こんなこと、映画で実現するんだあ、と思いました。