プール雨

幽霊について

ふりかえる

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スターがいっぱい

ちょっと前、"ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD" を見に行ってました。

1969 年のお話。

若い美貌の俳優シャロン・テート、主人公リックと共演する子役のトルーディ、そしてリックのスタントマン、クリフが街で拾うプッシーキャットと呼ばれる女の子。この三人は初登場かあるいはそれに近いシーンで同じ姿勢を取っています。シャロン、トルーディ、プッシーキャットと繰り返される同じ姿勢。同じ姿勢を取るのだから、基本的には同じ役割ないし同じ人物として登場していると考えられます。それはすこし低めの視点から映されていて、映画の中の彼女たちに素朴に憧れるすこし小さな人の、女性たちをまぶしく感じ、どきどきする時間を追体験させてくれる演出です。

彼女たちの足の裏は汚れています。小さい子にはそれがよく見える。さすがに衣装に身を包むトルーディの足の裏は汚れていないだろうけど、リックが提案した演出により、彼女は汚れた床にたたきつけられます。まばゆいまでに美しい人の、ほこりにまみれる姿が画面中央に現れるや、彼女はけろっとして立ち上がり、リックのアイデアと演技を褒め称えます。するとリックときたら顔をほころばせ、涙ぐみさえするのです。

シャロン・テートもトルーディもプッシーキャットもまず最初に一瞬、「女性」として現象します。そのことが画面を輝かせ、彼女たちをめぐる登場人物たちを輝かせますが、その後、つるりと彼女たちは固有名のある存在として、よりはっきりとした輪郭を見せるのです。

トルーディという聞き手の前でリックはホラ話に精を出します。自分でふいたホラで涙ぐむリック。でもトルーディが聞いてくれて、感想を述べ、彼を励まそうとするので、その涙も半ば本物になります。リックの話の聞き手として登場するのは基本的にはこのトルーディとクリフしかいません。彼女と彼以外の前ではリックはただ黙って話を聞き、ときには偉そうな説教めいたものまでされても笑顔を絶やさず聞いています。そして、一人の部屋で台詞を必死におぼえ、一人のトレーラーで自分のふがいなさに涙します。リックは基本的には一人でいようとする人。その彼にトルーディやクリフといった飄々とした人物が二人組マジックのようなものを与えてくれる、というのがすてきです。

シャロン・テートはほとんど台詞がありません。メインとなるのは、彼女が休日を一人で楽しむ場面。街に出て、ゆったりと歩き、映画館にふらりと入る。そこでは自分が出演した映画がかけられている。客入りはまあまあ、とはいえない。昼間だし、がらがら。そのがらがらの客席にシャロンはわくわくとすわり、ゆったりと肢体を伸ばします。そして自分の出演シーンに目を輝かせ、まわりの観客たちと一緒に控えめに笑ったり拍手したりするのです。そのときのとびきりの笑顔が胸にやきついています。彼女の夢がぱっと花開く瞬間です。

この映画は「これは昔々のお話です」と始まっておいて、そのなかから個々人の現実と今が立ち上がっていくというつくりになっています。「昔々」が「今の話」になったなあという瞬間の積み重ねにわくわくします。

この、今の話だ、今の映画だという自分の感慨は何なのかなと思う。

たぶんそれは映画と観客の間に生じる必然性と切実さの度合いのことで、"ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD" と私の組み合わせは、結構切実だったのです。

1969 年。私はまだ生まれていません。だから、私より年上の人たちが言う「昔はよかった」という感慨が私にはありません。この映画は私より年上の人が子どもだった時のお話。大人たちの多くは煙草をスパスパ吸っていて、吸い殻をぽいっと地面に投げつけていた。強いお酒でカクテルをつくり、ストローでちう〜と吸ったり、ずずずっと飲んだりしていた。男の子と女の子はやっかいな手続きをふまずに、目と目で語り合い、それで了解を得、デートを重ねた。屋根に上がりアンテナを直そうとしたら、隣家から聞こえる大音量の音楽。それを聞きながらいい気分でビールを飲む。膝から下はゴミための、ぱさぱさした街で車に乗り込めば、何の悩みもないような気がしていた。とはいえ、大人たちには悩みがあったのかも。実際、リックはトレーラーで咆吼していたし、クリフは道端でゴミをあさる子どもたちのことを気にしていた。映画界は二人をおきざりにしつつあった。でも、クリフが運転し、助手席にリックがいる車の後部座席に乗って、彼らの間を渡ってくる風を受けると、なんだかそれだけで幸せな気持ちが胸にあふれて、そうだ、私もクリフのような大人になって、リックのような友だちを車に乗せてどこまでもどこまで二人で行ってみたい、そんな風に思えました。

それがかけがえのないことだったと思う、という体験でした。

そんな体験をいま、この年齢ですること。

会ったこともない人が子どもだったころの視点に立って、現実には味わったことのない安心感と希望を感じました。同時に、自分は現代の大人だから、ゴミを道端に捨てないし、常に自分の公共性を気にしている。すこしでもましな言動を取りたいし、相手がいやだと思うようなことはしたくない。

でも、晴れた日にベランダで靴を磨きながら、隣家から流れてくる大音量の 80 年代ポップスに耳を傾けてみたい。まるでそこにいないような体で互いに気を遣い合って暮らすんじゃなく、もっとオープンでいたい。互いの出す雑音を聞き合いながら元気よく暮らしたい。

"ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD" を見ることは、そういう気分を味わうという体験でした。

同時に、『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ 繋がれざる者』を見たときには感じなかったためらいも感じました。

それは単純に「現実には起こらなかったことを映画の中で起こす」ことと「現実に起こったことをなかったことにする」こととの違いに起因していて、そのためらいは完全に倫理的なレベルで生じるものです。「これはやっていいことなのか」というためらいがずっと消えません。

でも、あんなことがなければ、あの夢のようなハリウッドの世界が続いたとは、この映画も言ってはいない。あの事件が起こる以前に変化は訪れていて、リックもクリフもそれを受け入れざるをえないし、そこで何とか生き延びようとしている。だから、あの事件の結末が違ったとしても、結局、1969 年にはまだかろうじて吹いていた風がやんでしまうことにかわりはありません。

私たちが失ったのは、街を歩くときにわきおこる、自分たちの先行きに対するわくわくとした期待や、誰かの運転する車で安心しきって過ごすことや、汚れた床や土の上を素足で歩くこと、その足を人に見せること、夢を全身で楽しむこと。

シャロン・テートが現実にいないということを自分の片側で意識しながら見ると、「私たちはこれを失ったんだ」とシーン毎に思います。

だから、結局は、ただ単に、あんなこと起こってほしくなかった、と何十年も胸を痛めつづけ、後悔に似た気持ちにさいなまれている人の姿が見える。

あんなこと、なかったらよかった、とぽつんと口にした人がいて、ぽつんぽつんと思い出にライトを当てていったら、ああいう映画になりました。

そういうことなのかな、というところまでしか考えられない。

従妹の運転する車でドライブするのが好きでした。二、三回しかないのですが、決まって後部座席に叔母と、従妹の子を乗せて、私は助手席でけらけら笑っていました。最後にドライブしてからもう 5 年くらい経っていて、その間に私が生まれた家では大きなトラブルが複数起こり、私は帰れなくなりました。従妹にもアクシデントがあり、多分、彼女の運転する車の助手席に乗ることはもうないだろうと思うのですが、私は時々、あのドライブを思い出します。「あのときはよかったな」とかそんな怠けた気分ではなく、ただ、切実に思い出します。そして自分が失ったものをじっくり考えます。失ったのだ、ということを受け入れます。たまにそういうことをします。