近くの図書館がのきなみ休館になってしまい、来週の仕事がまずいことになるかもしれないのですが、まずいことになったときに考えることにします。
それよりも、のきなみ美術館が休館で、「今度こそ」と思っていたハマスホイを見逃す可能性が出てきたのが悲しい……が、それもとりあえずそうなってから悲しむことにします。
今は目先の展覧会が要にして急なときです。
練馬区立美術の森にでかけてきました。
美術館の手前が公園になっていて、そこでお子様たちが縦横無尽に遊んでおられました。
この象はリアルすぎて人気がないようでした。
今やっているのは「生誕 140 年記念 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和展」です。
津田青楓は華道家の家に生まれたのですが、主家に頭を下げる暮らしが嫌で出奔。姓を母方の津田に変え、日本画、染色、洋画をぐいぐい学ぶも徴兵。そして日露戦争。旅順での激戦をかろうじて生き残り、トラウマを抱えて帰国。その後海外実業実習生としてパリに留学。帰国して、権威的な文展を脱退して二科会の設立に尽力。のち、河上肇と出会い、プロレタリア運動に参加……と、激動の人です。虐殺された小林多喜二をモチーフに「犠牲者」を描いていたところを警察に検挙されもしました。
展覧会ではこの津田青楓を「背く作家」と呼んで、丁寧にその人生を見せてくれました。
たっぷりしていて、大満足。
彼の洋画はゴーギャン風だったりルオー風だったりとなかなか作風が定まらなかったのですが、自身が主宰の画塾で習作として描いたもののなかに印象的なものがありました。「犠牲者」は装画家としての彼と洋画家としての青楓が無理なく出会っているようで、シンプルで、ストレートに悲しいと感じました。
戦争が終わったときに言ったとされる「ヤレヤレ」も印象的です。
漱石山房の有名な絵「漱石山房とその弟子達」もあったのですが、内田百閒は後で書き足されたのですね。おとなしそうに座ってました。そして改めて、森田草平、えらそうだなあ! と笑ってしまいました。
漱石が青楓に送った手紙もおもしろかった。俺は人間がバカな方だから、好きな人が少ないんだよ、青楓に会いたいよ、みたいなお手紙。
絵はがきをすこし買って、部屋に飾りました。
この後はイタリアンレストランでワイン飲んでお肉食べてちょっと散歩して家に帰ってきてカフェオレ飲みました。夜は NUMBER GIRL の「
充実の日曜日です。
後記:最後の絵はがき、絵の上下が逆でした。間違えちゃった。