感染症対策で、外出禁止を要請しながら、生活保障をなかなかせず、保障をするという方針に向かった後も、どういう人に保障をするかその選別に時間をかけるところに「カウンター越しの対立」という言葉を思い出してしまいます。
生活保護申請に際して、申請者はカウンターの向こう側の職員に向かって、自身がほんとうに苦境に立たされていることを説明し、証明することが求められます。この手続きが大変なこともあって、生活保護の補足率はきわめて低く、本来なら生活保護を受けて生活を立て直すべき人がそうできていないという問題が報告されています。*1
この問題に限らず、日頃の公文書管理の傾向から、現政府は市民と対立し、市民を選別し、そしてだまそうとしているという思い込みが自分のなかに育ってしまいました。
たとえば今日の東京新聞朝刊に「コロナ病床数 政府過大公表 空きベッド数=対応病床扱い 自治体困惑」という記事が出ていました。この見出しを見て、反射的に「政府、また嘘ついた」と思ってしまいました。よくない態度です。記事は単に、この感染症に対応できる病床数を政府が正しく把握できていないという問題を指摘するものです。
私は普段、人の書いた文章を出版し、流通させてもよいか確認する仕事をしています。この確認の仕事で大事なのが、疑ってかかることではなく、「ここに書かれていることは最低限この中において筋が通り、正しいものである」という前提で臨むことです。
私はこのことを、最初に就職した会社の先輩から教わりました。間違っているかも、ミスがあるかもという前提で読み進めると、読解に余計な負荷がかかり、きちんと読むことができず、むしろ見落としにつながるから、「ここに書かれていることは正しい」という構えで読むこと。そうすると、疑ってかかったときより容易に矛盾や飛躍に気づくことができるのです。
情報を読み取るときに、疑ってかかれ、という対立的な構えをすすめる人もいますが、私はそういう構えを仕事では決して取りません。余計な手間と負荷につながるからです。その、余計な手間と負荷をかけて新聞を読むので、めくる度に「うっ」とか「ちっ」とか言ってしまいます。単なる報告の「意図」をめぐって妄想してしまい、きわめて陰謀論的な発想に墜ちています。
仕事では取らない構えを、日常生活では取るというのでは、本末転倒だと思います。
読むことに関してだけは、常に「オン」の状態でがんばりたい。そして自分の言葉を鍛えたい。
仕事に臨んでいるときのようなオープンでフラットな構えで、この未曾有の事態に臨んで、最後まで(すくなくとも精神の)健康を維持しなくては。
今日考えていることは以上です。
最後になりましたが、本日のお散歩の成果を添えて、おわります。
おしまい