『MONSTERZ』という映画の評判を『邦キチ!映子さん Season3』で拝読しまして、映子さんが「とにかく藤原竜也の迫真の『えっ !?』が何度も観られる展開で!」と楽しそうにプレゼンしていましたので、
お も し ろ そ う
なんて素朴に思ってしまいまして。
この先、ネタバレと言いますか、結末まで全部書きます。まだ書いてないのでわかんないけど、書かざるを得ないんじゃないかな。
『MONSTERZ』は超能力で人を意のままに操れる藤原竜也と、その超能力が一切効かず、かつ尋常ならざる頑丈さを併せ持つ山田孝之が戦うお話。
同時に、子どものころ、その能力のせいで親に殺されかけ、以来一人で生きてきた藤原竜也と、子どものころ、交通事故に遭い、同じ車に乗っていた両親と弟を失って、やはり一人で生きてきた山田孝之が戦うお話でもあります。
超能力で他人を意のままにあやつれる藤原竜也。彼は基本的に泥棒をしながら、都会の片隅でひっそりと暮らしていました。そんなある日、偶然、自分の能力が効かない引っ越し業者(山田孝之)がいることを発見します。竜也びっくり。お前は誰だ……と竜也、孝之を尾行。侵入。乱闘。どったんばったん。そして言います。
「俺の世界から出て行け……」
いや、竜也が勝手に来たんだよ?
藤原竜也が勝手に山田孝之を発見して勝手に追いかけて勝手に暴力をふるっているんです。
まず、このくだりがとにかく、どうしても、納得いきません。
私が竜也なら孝之の視界に入らないように隠れて暮らします。
でも竜也はぐいぐい行ってしまうのです。
これ、見る側に、最初の 15 分くらいでがーっと藤原竜也の方に肩入れするような勢いがついていないと、なかなか最後まで見通せない構造のお話だと思うんです。孤独な藤原竜也が初めて自分と対等な(と、思える)相手に出会って恐怖を感じ、その恐怖が見ているこっちにも伝染してくるようじゃないとおもしろくないんじゃないかなあ。
どうしても「貴様が勝手に出て行くからいけない」としか思えませんでした。
納得行かないのは主人公の所業だけではありません。
「文化人類学と遺伝子工学を修めた(なんらかの)プロ」っていう人が警察側の人として登場するのですが、この人が空虚。ほとんどの台詞が前後と合わない。そしてものすごく若い。全然畑違いの学位を最低でも二つ持っているのに。8 歳で大学入学か。それはおいとくとしても、文化人類学を修めた人とはとても思えない差別観、人類観をもって講釈たれるのです。しかもその講釈が彼女最大の見せ場……。高校生がそんなレポートを書いたらねっちりと小一時間、一文毎に細かく指導されてその上突っ返されるレベルなのに。あるいは、会社でえらい人が飲み会で言ったら最後、「こんな人の元で働くのは心底きついなあ」ってみんなが思うレベル。この人、出てくる度に動機が違うし、どういう設定なんだろう。A.I.?
さらに納得できないのは、山田孝之を幼い頃からサポートしてきたと思われる刑事、松重豊。この人が、長い間(20 年くらいか?)、山田孝之の面倒を見てきたにもかかわらず、彼(ら)を化け物呼ばわりし、貧相なロジックで銃口を向けるのは、不思議というか、もはや「反応」または「反射」とすら思えないレベル。やめて! 孝之に今初めて出会った体で対応するのは!
そして孝之。幼い頃、弟を守れなかったのがトラウマで、「自分は弟を守れなかった」と責め続けてきたと。そこまではいい。だから自分の生きる意味を探してきたと。「なぜ自分は生まれてきたのか、その意味を、価値を知りたい」と。そして今知る、竜也を倒すためだと。
あー。
えー。
あ、そう。
そうなの?
でも孝之、同じ口で「君の生きる意味は?」って社長に(唐突に)聞かれて、「死ぬまで生きるだけっす」って爽やかに答えて、石原さとみに「いい言葉もってるじゃん」って言われるじゃん。
この場面はすべての言葉の連なりが気持ち悪いのだがとりあえずおいといて、このとき、価値とか意味とか知らねえよ、俺は精一杯生きるだけサって結論出してるのに、なんで後でごちゃごちゃ言いよる。
というわけで、「なんでこう、今ひとつ生理的に納得のいかない映画が出きてしまったのだろう」と思い、原作であるところの『超能力者』を見ました。
おもしろかった。
おすすめです!
当然ながら、話は基本的に一緒で、その能力が元で疲れ果てた母親に殺されかけたカン・ドンウォンは一人でひっそりと生き抜いてきたのだが、ある日その力が効かないコ・スに見つかり……
というわけで、『MONSTERZ』で変だと思った箇所は、すべて『MONSTERZ』オリジナルでした。
- カン・ドンウォンは能力が効かない相手に「見つかり」、倒さざるをえない状況になる。
- コ・スの過去は明らかにされず、彼は何かのかわりにカン・ドンウォンを追い詰めるのではなく、どうしようもなく巻き込まれる。巻き込まれて、恩人が殺されたり、警察で(証拠を提出しているにもかかわらず)証言をまともに扱ってもらえなかったりするなかで、「これは自分の運命だ」と観念してカン・ドンウォンと相対する。
- 松重豊と、文化人類学を修めて刑事になったという謎の人物は出てこない。『超能力者』では警察は背景にぐっと引いていて、「そりゃそうだよな」という動きを見せるので、文化人類学とか遺伝子工学が出てこなくても優秀に見える。
- コ・スは自分の頑丈すぎる体に違和感はあるが、その能力に気づいておらず、次々と犠牲者が出るなかで、徐々に能力に目覚めていく。それを過去のトラウマと結びつけて物語化するのではなく、あくまでも現在の、目の前のことを引き受けていく。
- カン・ドンウォンのヒーロー願望がむごくも挫折し、その後でコ・スという無自覚なヒーローが誕生する。
『MONSTERZ』では、超能力で操られていた人びとが、そこから解かれたときの反応が人間的でないとか、ドアの向こうでどったんばったやってるのに無反応なのが人間的でないとか、背後で人がひとりはいつくばってはあはあ言っているのに淡々と作業をするのが人間的でないとか、足をひきずって苦痛に顔をゆがませながら歩いている人がいるのに行き交う人が全然、まったく、みじんも気にしないのが気が狂っているようにしか見えないとか、全体に人間の想像力ではちょっとおっつかない展開をします。
また、『超能力者』では廃車工場だったのが宅配業者になっていたり、質屋が楽器の修理を手がける店になっていたり、外国人労働者だったところが、「オタク」と「おかま」になっていたのも気になりました。かっこつきにしたのは、彼/彼女がどういう人か全然わからなかったからです。ひとりはゲイと思わせるような描写があり、女言葉を使ってはいるけど、男友だちと一緒にフラットなテンションでお風呂に入る。どういう人か言葉による説明まではいらないけれど、この人がこういう風に描写されていることが物語上意味がなくちゃいけないと思うんですが、なかったと思う。「オタク」も、冒頭で「この人、ゲームオタクですよ〜」という感じの描写があるのですが、そのワンエピソードのみで最後まで行く雑さで、設定が特段生かされない。外国人労働者が「オタク(?)」と「おかま(?)」になり、廃車工場が宅配業者に、質屋が楽器店になるというのが、この『MONSTERZ』の空間認識、社会認識の小ささを表しているように思います。
『超能力者』は基本的に、障碍があったり、早くに家族に死に別れたり、あるいは外国人だったりと、この社会の片隅でひっそりと、あるいは必死にどたばたと生きている人たちの話で、その人たちの前で時折空間がすごく広く展開するのが印象的でした。端っこと端っこ、隅っこと隅っこで生きていて出会ってしまって、その彼らが逃走を繰り返しながら都会のど真ん中にうっかり出てしまったときの、あの違和感と心細さがほんとに痛ましかったです。
結局のところ、『MONSTERZ』という映画は、登場人物たちに対して冷淡だった。これじゃこのひと、生きていけないでしょ、ってことの連続で。たとえば、藤原竜也の義足。おそろしく出来の悪い義足で、いつも変な付き方をしていて、膝から下に何か重い荷物がついているだけにしか見えませんでした。ひきずるってレベルじゃない。あれだったら、杖をついた方がマシだし、お金はあるんだからもっといい義足つくればいいのに、ってずっと気になっていました。
韓国映画のリメイクで藤原竜也主演の映画といえば、『22年目の告白』があります。こちらはとてもおもしろいので、おすすめです!