プール雨

幽霊について

「みんなが好きなもの」について

 学生時代、英語の先生が次のようなことを言っていた。

「僕らの上の世代にはビートルズがいて、みんながビートルズを聴いていた。自分たちの世代にそういう共通の体験がないのは寂しい。そう思わない?」

 同様の感慨は、自分と同世代のテレビタレントもちょくちょく口にする。

「昔はマイケル・ジャクソンやマドンナをみんなが聞いていた。今、そういうのがない。寂しい」

 こうした、「昔は『みんな』に共通の現象があって、それに関しては阿吽の呼吸ができていた。今はそういうのがない。『みんな』って認識が成立しづらい。寂しい」という話をうまく受けとめきれません。

 例えば「みんながビートルズを聞いていた」という話を聞くと、その「みんな」ってどういう「みんな」だろうと考えてしまいます。「ラジオやテレビで流れない日はなかった」という現象はあっただろうし、エンターテインメントの主役が音楽で、そのトップを行っていたのがビートルズだったということはあるだろうけど、まず、実際には聞いていなかった人の方が実数としては多かったのではないかと思う。人類規模で見れば。音楽が好きな人ってそれほど多くないんじゃないか、さらにロックというジャンルに、それほど固定ファンはいないのではないかと思う。それが一点目。そして、次に、実際にいつもビートルズを聴いていたという人たちについて、ビートルズを聴いているときに「みんな」という共同意識があった人となかった人がいて、その割合はわからないけど、私は音楽体験としては後者の、「一人でビートルズを聴いていた」という人の方がリアルだと感じる、という点が二点目。

 この二つの視点自体、重ならないので、「昔は『みんな』がビートルズを聞いていたよね」と言われても「うーん」と曖昧に、ぼんやりと、しかし結局は、自分にそういえる視点はないと返答することになってしまいます。

 何らかの趣味をもつということ自体が生きる構えとしてはマイナーで、音楽はそのマイナーななかでも更に楽しみ方が多様で、体験が一様じゃない。意外と共有しにくいものがある。

 マイケル・ジャクソンやマドンナを聞いていた「みんな」には出会ったことがない。

 田舎育ちだからというのもあるだろうし、自分は音楽が好きで、一人で音楽を聴いていたから、そういう「みんな」と出会いにくかったのだろうと思う。

 例えば、ドリカムや B'z は大スターでドームを満席にしてツアーまで敢行してしまうのだけど、「みんな」が聴いていたか、そういう共同的な現象だったといえるかと考えると、毎日毎日ラジオから流れていたから、そういう意味では「みんな」が聞いていたといえるかもしれないが、自分の身の回りでドリカムや B'z のファンだという人がかたまりで存在しているわけではない。

 出会ってみると、ドリカムや B'z のファンはそのほかの音楽家のファンと同様、マニアックで情熱的で人生がドリカムや B'z とともにある。そういう濃密な個人の体験を「みんな」という言葉では語れないと思う。

 私は「みんなで盛り上がった」体験がないので、「昔は『みんな』が好きなものがあって、それで無条件に盛り上がれた。今はそれがなくて寂しい」という認識には立てないし、また、それに寄り添うことすらできない。

 子どもの頃は YMOジャッキー・チェンがいたけど、まわりに YMOジャッキー・チェンを好きな友だちがいなかった。だから友だちに話す機会がなかった。でも、仲の良い友だちはいた。仲の良い友だちとは別に音楽や映画の話をしなくても仲がよかった。

 ただ、一度、「趣味の合う友だち」がいたらなと思うことはあった。二十代のころ。寂しかったのだと思う。「趣味の合う友だち」と一緒にライブに行ったり、映画館に行ったりしてみたかった。

 でも、趣味の合わない友だちと一緒にライブに行ったり、映画館に行ったりすることはあった。それはそれで楽しかった。「それはそれで」と言ってしまったが、はっきりと楽しかったし、今でも楽しい。

 今更で恐縮ですが、この話にはとくにまとまりがありません。

 「昔は『みんな』でマイケル・ジャクソンを聞いた。今はそんな水準で売れている人っていないでしょ。だから寂しい」というようなことを言われると、

  • その「みんな」の規模と性質が自分にはわからない。
  • ファレル・ウィリアムスの "Happy" やアデルの "Rolling in the Deep" とか「みんな」聞いているといえないのだろうか。エド・シーランの規模でも?
  • 私は「みんな」を味わったことがないのかなあ。

 というようなことを考えてしまうというだけのことです。

 溝を感じます。相手も感じているだろうなと思います。

 こないだ、映画館にひとりで行くのが好きだったのは、結局、ひとりで映画を観ている人たちのなかにまじって自分もひとりで映画を観て、そういうことが成立しているってことに安心していたかったからなんだなってことに気づきました。

 フェスに行くと、みんな、ばらばらにあちこちから集まってきて、ばらばらに楽しんでばらばらに帰る。そういうとき、ほかでは得られない安心感がありました。

 映画館にひとりで行くという習慣に、自分がもう一度帰ることができるかどうか、現状では不透明です。またそうなれることを今は自分に期待しています。