プール雨

幽霊について

風の歌を聴いてる場合でしょうか

 今日は気まぐれに村上春樹風の歌を聴け』を読みました。

 新作を読みたくないあまりに、長編第一作を読んで、自分の構えをつくってみようと、そういう試みでした。

 冒頭にまず、語り手の書けない、言えない、それが辛い、という吐露があります。自分の視点からすべては見えないから、書きおおせることはできないだろう、書けてはいないだろう、でも今はこれがベストでこれ以上できない、というのが書きだしです。じゃ、どんなものを書きたいかと言うと、書いた結果、救済されるようなものを書きたいと言います。書くことは「自己療養へのささやかな試み」(講談社文庫版『風の歌を聴け』p.8)なのだと。「僕」は「他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もし」(同 p.8)、傷ついているようです。それを書くことで、そして、書き続けることでもしかしたら救済されるかも、と。

 では、その宣言の上で書かれる物語はどういうものか。

 どうも、交際していた女性の自殺に責任があるともいえるしないともいえる、僕にはわからない、彼女もわからないだろう……という事件と、現に目の前で苦しんでいる二人に対して、自覚はないのだが僕はさらに追い込むようなことを言ってしまったのかもしれないしそうじゃないかもしれない、全容は僕にはわからない、かれらにもわからないだろう……という、二つの事件があって、「僕」は罪を犯したのかそうでないのかわからないのだが、実際にある人は自死を選び、別の人は目の前から消えた、永久にね、という感じです。

 このメインの事件二つの傍らにはもうひとつ、高校の同級生だった女性の事件があります。彼女はラジオを通じて「僕」にメッセージを送り、それを聞いた「僕」は、彼女は今どうしているのかと旧友たちに尋ねます。

 翌日、僕はかつてクラス・メートだった何人かに電話をかけて、彼女について何か知らないかと訊ねてみたが、誰も彼女については何も知らなかったし、大部分は彼女が存在していたことさえ覚えてはいなかった。最後の一人は何故だかわからないが僕に向って、お前となんかは口もききたくない、と言って電話を切った。(同 p.67)

 これ、気になる話なんですけど、これっきりなんですよ。

 「僕」はこの「彼女」に高校時代レコードを借りっぱなしになっているのです。彼女はラジオにそのことを投稿して、「僕」がそのことを思い出せたら、番組からのプレゼントが成立するという企画で、「僕」はなんとか彼女のことを思い出します。つまり彼女は遠回しではあるんですが、ラジオを通じて「僕」に手紙を送り、それが届いたのです。だから、彼女に「そうだ、レコードを返さなきゃ」と思って、同級生達に連絡してみたら誰も知らない、通っているという大学に問い合わせたら「退学した」、住んでいたという下宿に問い合わせて「知らないよっ!」みたいなことになったら、そこで終わりじゃなくて、ラジオ番組に問い合わせる手がありますよね。遠回りな手紙というのはそういう経路をたどらざるをえなかった理由があるはずで、それを知りたかったら仲立ちをしてくれた番組に事情を話したらいいんじゃないでしょうか。それをしないのが不思議。レコード借りっぱなしだし(状況から言って、そもそもこのレコードを返さず、紛失しているというのも、神経を疑う)。また、高校の同級生に電話して「お前となんかは口もききたくない」とまで言われておきながら「何故だかわからないが」という反応ですませるのも不思議。なんかそういうこと(失言などがもとで絶交されてしまうとか、その種のこと)に慣れてしまっているのか?

 不思議な人なんですよ。

 その不思議な人が高校のクラスメートや現在の友人やレコード店の女の子や、恋人が目の前で傷ついて、姿を消して、そんな現実について語るときに言うに事欠いて

 あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。

 僕たちはそんな風にして生きている。(同 p.147)

 と、来る。

 いや、もうちょっとがんばれ。

 風の歌を聴いている場合じゃないぞ。

 人の話を聴け。

 それで、これが最初の長編なので、これを読んだ時点では「続き(次の作品)を読まないとわからない」と思って判断を保留してしまうのが人情だと思うのです。

 だって、「書けないよ。なぜなら、時は流れ人は死ぬのだし、僕ひとりの視点からは事実のほんの一部だって見えていないかもしれないんだ。僕は傷つけたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。真実はかれらにだってわからないだろう」としか書いていないので、「うーん、ま、じゃあ、書き続けるしかないんじゃない」と反応してしまう。

 まさかこれが延々ずっと続くとは、あの頃誰も思わなかったのではないでしょうか。

 あらためて読むと「あ、村上春樹の長編って、基本的にずっとこれだな」というところに行き着きます。

 この、罪を語ることの不可能性とでも言うのでしょうか、このモチーフ自体が一部の人びとを癒しちゃったんだろうなあ。

 この「僕」と共通の教養と政治的スタンスをもつ人たちを。

 村上春樹の小説は日付ががっちり出てきたり、戦後、ときには戦中の有名な事件が背景に書き込まれたりしていて、同世代の人ならぴんと来るものがあるのだと思います。特に、米軍がもたらしたものがすでに血肉化している世代、階層を書いていて、その上でなにもかも「わからない」と言い続けているので、この社会のこれまでとこれからに対してハンドルを握っているわけではないのに、被害と加害の問題だけは突きつけられ続けている、そういう「私たち」を安心させるような効果があったのでは。

 そして、こういうまとめ方をすると村上春樹ファンには激怒されるだろう。

 私の前に『ノルウェイの森』が現れたのは高校のときだったんですが、振り返るとあの頃はやってたもの、大体そんなに好きじゃなかった。でも、はやってるから我慢して読んだり聞いたりしてたんですよね。ファンの前で読まずに「つまんない」って言えないし。目の前にファンがいるという圧により、いろんなものに触れていました。読み出して「つまんないな」と思っても最後まで読み通す忍耐力はあの頃鍛えたのですねえ。しみじみ。

 今となってみれば、別に鍛える必要なかったなあ。

 「興味ない」でよかったなあ。

私に関係のあるもの

📚 おわり 📚