昨日、『風の歌を聴け』を読んで、自分には村上春樹は手に余る、というようなことを書きました。シスジェンダー、ヘテロセクシャル、経済的に裕福な男性の「……かもしれないし、……でないかもしれない」という吐露になど、つきあってられるか、と。
じゃ、なんでまた、新作が出る度に「やだよ〜やだよ〜」と言いながら読み続けたか(全部読んでいるわけではないです。『少年カフカ』『色彩を……』、今作などはあまりに評判が悪くて逃げました)。
「身近な人に自殺されてしまった人」が描かれているからです。
それも繰り返し。ほぼ「常に」と言っていいほど。
「身近な人に自殺されてしまった人」って、私もあなたもあてはまりますよね。
みんな、だれかに自殺されてしまって、どう受けとめたらいいかわからない。
ただその人が生きたという重みが残されるだけで、その人が生きた、最後には自分で生きるのをやめる選択をした社会で、これからどう生きていったらいいかわからない。「でも」も「だから」もなく、ただ。
自殺の影にはその 20 倍ちかくの「自殺未遂」があるという推計があります。去年一年だけで 21,881 人の方が自殺で亡くなっているということは、実際にそこまで追い込まれた人は 43 万人以上にのぼると推測できるということです。
そして、その方々のそばで生きているか、生きていた人びとがいる。
映画『新聞記者』はその重みの前で主人公達がうなだれ、言葉がでなくなり、最後は何か言おうとするものの、ただ、息を吸って、吐いて、というところに追い込まれておわります。
その苦しみを描いて終わるんじゃなく、そこからを映画にしてほしかったと口にするのは、自分を振り返るといかにも贅沢なことのように思えました。
ドラマ『ハッシュ 沈黙注意報』では、全二一話中、三話までに二人の方が自死を選びます。一人目は、このドラマの始まりとなる方で、主人公はその方の友だちだった記者と娘です。あのとき高校生だった娘、イ・ジスが成長して、大手新聞社「毎日韓国」にインターンとしてやってきます。同じようにインターンとして働くオ・スヨンと励ましあいながら、二人はインターンとして働く期間の最終日を迎えます。その直前、局長がスヨンの学校歴を問題にし、地方大出身は我が社にふさわしくない、部下として迎え入れるのは無理だ、と話しているところをインターンたちは耳にしてしまいます。そしてスヨンは「延命治療のような人生はやめた」と言い残し、自殺してしまうのです。
自殺が起きると、残された人びとの間で、はっきりとした言葉としては交わされなくても、「自殺を許すのか」としか言い表しようのない問いがつきつけられます。そしてとっさに「自殺するなんてバカだ」とか「あれくらいで死ぬなんて弱い」とか、そんな言葉が行き交う、悲惨なことになってしまうのだと思います。
でも、仮に今「許す」という言葉を使いましたが、多分それは先立たれてしまったショックで混乱してしまったがゆえに降りてくる、理解を阻む壁のようなもので、ほんとはそんな問題設定、成立しようがないと思うのです。
だれかに自殺されてしまうと、ずっと、そこに重い塊があるような感じで、それを、自分が生きていくこの時間のなかにどうにかして流せないか、つねにそばにありながら、私は自殺しないということと、その人が自殺してしまったということが、同じ時間の流れのなかでともに流れていく、そんな言葉がないか探すと、「許す」ということになってしまうような気が、一旦はするのです。ですが、許すとか許さないとか、そういうことを考える権限は私にもだれにもないわけで、そうじゃなくて、この喉のつまりをどうにかほかの言葉で言い表せないかと考えてきました。
『ハッシュ』はまだ 16 話までしか見ていないのですが(なにせとてもハードなので!)、この問題を実直に、コツコツと考えている感じがします。だからすっごくふらふらしていて、スマートな楽しいドラマではありません。父親が自殺を選び、同期の友人が自殺を選んだ、その社会でイ・ジスが選ぶ言葉と、ジスの先輩で、やはり友人を自殺で失ったハン・ジュンヒョクの選ぶ言葉が影響し合いながら、どこにたどりつくか、ハラハラしながら見ています。
2021 年に放送されたドラマを今頃見ているという状況で、たいへん言いづらいのですが、おすすめです!
📚 おわり 📺