イーサン・ホーク:チェルシー・ホテルにはゴーストが棲んでいる。だからゴースト・ストーリーを作りたいと思った。 DVD特典インタビューより
監督:イーサン・ホーク
脚本:ニコール・バーデット
2002 年 アメリカ
チェルシー・ホテルのナイト・クラブでウエイトレスとして働きながら、詩人を目指すグレース。その彼女に一人の画家が想いを寄せている。ミュージシャンのロスとテリーは夜になると曲をつくり、朝になると眠る。作家のバドには離れて暮らす妻グレタと恋人のマリーがいて時折彼の部屋を訪れては悲しげに、あるいは怒りに満ちた顔で出て行く。詩人を目指すオードリーにも頭を悩ませる恋人がいた。ホテルのクラブでは、ベテラン歌手スキニー・ボーンズが歌っている。廊下やエレベーターには、いつも一人の男が立っていて、詩をつぶやいていた。
チェルシーホテルは 250 室中 100 室ほどを長期滞在者に貸し出しており、作家やミュージシャン、画家といった人々が成功を夢見て暮らしている。19 世紀からこの街に建って人々を泊めてきたホテルの、壁に区切られた小さな空間で、人々は静かにじっとしている。
詩人を目指す人間が二人登場し、他にも作家がいて、詩めいたものをつぶやく謎の人物もいて、さらには歌手のつぶやきのような歌があって、彼ら彼女らの言葉が重なっては離れていく。
何か「達成」や「因果」が語られるわけではなく、時間が止まっているようだ。
考えてみれば当然かもしれない。作家はお仕着せの散文化をこばみ、自分だけの時間を生み出すことを狙うものだからだ。作家のまわりでは時間が凝っている。
さらにここはホテルだ。一時、時間を止める、あたかも時間がないかのように振る舞うのがホテルという箱だ。ホテルに幽霊がつきものなのは時間が流れないからだ。
朝食を用意しながら夕食の心配をし、アイロンのかかった気持ちの良い服に着替えながら洗濯機をまわす。自転車に乗り街に駆け出す、満員電車に乗る、小走りで会社に向かう。そんな、生き生きとした私達の時間の中で、物は壊れて人は死ぬ。
ホテルでは時間が流れないかのように息を潜める。そこで私達は本を読み、詩を書き、なにかを生み出そうとし、そして幽霊の声を聞く。時に詩人のように、時に歴史家のように幽霊の姿を見る。
イーサン・ホーク本人が出てこないのが印象的だ。おそらく、ユマ・サーマン演じるグレースが電話で言い争いをする相手を演じているのがイーサンだろう。電話の向こうからちょっとした長話を言い立てた上に後 45 分で着くから迎えに来いと言い、グレースが行けないと言うと激怒する、早口の、人をいらいらさせる、生き生きとした男、サム。サムがこのチェルシーホテルに登場したら、ゴーストたちは逃げてしまうだろうなと思う。じっと静かに暖かく凝っていた空気が、彼の登場でぐんぐん動いて、画面の色があっという間に変わってしまうだろう。
静かで誰もが息を潜めているような(仮に大声で罵り合ったとしても)このホテルに、常に移動しているようなイーサン・ホークはいかにも似合わない。
イーサンはニューヨークに出てきたばかりのころよく、チェルシーホテルの窓辺を見上げては「あそこでは何が起きてるんだろう」と想像していたという。
この映画を撮る上で「こわれゆく女」「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」「天国の口、終りの楽園」が念頭にあったと率直に言い、サム・シェパードを尊敬し、父とも兄とも思うと答える彼が、「チェルシーホテル」という映画の登場人物としてはちょっとはずれたところにいるというのがおもしろい。ずっと想像してきたその場所に、自分はいなかったのだ。
彼は一度、幽霊を演じたことがある。「たとえば願いが叶うなら」というテレビ映画で、末期がんにかかった少年の父親を演じた。その父も夭逝しており、最初は息子のために彼が残したビデオレターというかたちで登場し、次に夢というかたちで、中盤から終盤にかけては幽霊の姿でそこらじゅうを歩きまわったり車に乗っていたりする。死をおそれて焦る少年の最後の時間をかき回し清新なものにする幽霊として彼は街中に立っていた。そういう役回りがイーサン・ホークにぴったりだった。
イーサン自身はそんな自分をこの「チェルシーホテル」には出演させなかった。それは概ね成功と言えそうだ。イーサンが姿を現さない「チェルシーホテル」は静謐で切ない。「ゴースト・ストーリーを作りたい」という当初の狙いは成功していると思う。
でも、出ても良かったんじゃないかな。ぱっと彼が外の空気をまとってそこに現れて、ゴーストたちが喋るのをやめ、夢がはじけて、そしてグレースを外に連れ出す。見ている方は「これは何の映画だったんだ?」とわからなくなる。わからなくなるが、「まあ、いいか」と映画館を後にする。そんな感じでもおもしろかったんじゃないかな。