プール雨

幽霊について

失語する

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  1 月 7 日の朝日新聞の朝刊に「コトバと沈黙」と題された文章が載っていました。そこに、「インターネットの急速な進展は、社会を変えた」という一文があり、続きはこうでした。

「#MeToo」運動をはじめ、これまで発言を抑えられてきた人々が声を上げ、大きなうねりとなる場面が生まれた。一方、他者への思慮を欠いた暴言があふれたり、ただ声の大きな者が勝ったりする状況に、私たちは直面している。

  これが一日違っていたら、この箇所はどうなっていたのでしょうか。アメリカで起きた暴動は「インターネットの急速な進展」と相関していることまでは確かですが、あれは何だろう。「これまで発言を抑えられてきた人々」の生んだ「大きなうねり」と呼ぶ人もいれば、「ただ声の大きな者」たち(そして武装している!)による暴動にしか見えない人もいるでしょう。私はここで最初から「暴動」と呼んでいますが、NHK の報道では「デモ」と呼ばれていました。

 「コトバと沈黙」は石原吉郎の「ことばがさいげんもなく拡散し、かき消されて行くまっただなかで、私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない」(「失語と沈黙のあいだ」)という言葉を引いて、こう続けます。

 石原にとって「失語」と「沈黙」は似て非なるものであったと、文学者で詩人の冨岡悦子さんは話す。評論『パウル・ツェラン石原吉郎』を発表した冨岡さんは、彼の詩文をたどり、「むしろ沈黙は、言葉の一種の母体なのではないか」と考える。

 冨岡さんによれば、石原が指す失語とは、収容所で人が他者の生き死にに無頓着になるように、外の世界への関心を失った状態だ。関心がない相手には、平気でウソ、空疎な言葉を口に出来る。それ故失語には異様な「饒舌」が伴う。そして失語から脱却して発語に至ろうと、自己との対話や内省を重ねている段階こそが沈黙なのだという。

 互いに憎み合っていることを熟知し、監視し合い、明文化されていない法(のようなもの)からの、ほんのわずかな逸脱が死につながるような社会に生きているとき、私たちは失語する。そういうことだと思います。

 「人が他者の生き死にに無頓着に」なり、選別すること、排除すること、見捨てることに心を痛めなくなり、「外の世界への関心を失」い、嘘やでたらめ、デマを良心の呵責なく口にする。そのとき、関心を失っているのは外界や他者に対してだけでなく、自分自身に対してもそうなのでしょう。ただ憎み、ただ、出し抜いて生き残ろうとしているとき、一度しかない自分の人生も毀損しているということに、気づいていない。もし気づいたら、多分もう生きていけない。

 ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(齋藤真理子訳)では、離婚と親権裁判を経て失語してしまった女性が、失語から恢復するときを待ちながら生きています。

 言葉を失ったのは特定の経験のせいではないことを、彼女は知っている。

 数え切れない舌によって、また数え切れないペンによって何千年もの間、ぼろぼろになるまで酷使されてきた言語というもの。彼女自身もまた舌とペンによって酷使し続けてきた、言語というもの。一つの文章を書きはじめようとするたびに、古い心臓を彼女は感じる。ぼろぼろの、つぎをあてられ、繕われ、干からびた、無表情な心臓。そうであればあるほどいっそう力をこめて、言葉たちを強く握りしめてきたのだった。握り拳が一瞬ゆるめば鈍い破片が足の甲に落ちる。ぴったりと嚙み合って回っていた歯車が止まる。時間をかけてすり減ってきた場所が肉片のように、匙で豆腐をすくうように、ぞっくりとえぐり取られて欠落していく。  (『ギリシャ語の時間』p.197 より)

  彼女は恢復のきっかけが得られることを期待して、古典ギリシャ語講座に通っています。一方で、ギリシャ語の講師は、いつか自分の視力がほとんど失われることを知っています。瞼を開ける度に、むしろ開ける前より見えないという事態に困惑しながら日々を送ります。

 瞼と唇、世界への窓口になるはずの薄い皮膚を閉じたり、開いたりしながら、彼女も彼も苦しんでいます。

 ギリシャ語には中動態という「態」があります。その動作が主語に再帰的に影響を及ぼすことを表す態です。能動態でも受動態でもなく、その状況に自然と置かれてしまうことを表す、日本語の古語「ゆ」とも重なるような機能をもつ中動態。物語は、この態を注意深くなぞるかのように、告発や責任、因果などとは別の語り方をしていきます。

 この開かれた語りをじっくりと口の中で味わいたい。

 失語しそうです。

 失語への階梯の、ずっと手前で絶句を重ねているところです。

 むかしは、自分の前は真っ暗で、どちらが前か後ろか上か下かもわからない、ただ、足を前に出すと、ときに光る石が現れることがあり、そこにいっとき足を片付けることができ、それが後から思い出すと「ゆっくり歩いている」ように見える、そんな感じでした。

 今はかがんでいます。

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