プール雨

幽霊について

小泉喜美子入門

 手短に行くわよ。

honto.jp

 さあこれからちょっとした大仕事よ! とその人なりにはりきったところでかくっとなるようなことが積み重なる短編が 10。どれもちょっとした映画になりそうです。

 「木美子の冒険」の主人公はミステリー作家。家で仕事をしているのをいいことにアフロにしていて、なにか表だったことがある度に美容院でアフロをなんとかかんとかしてもらってはまたアフロに戻すということを繰り返していたら髪がぱさぱさに。そんなとき、テレビの仕事が舞い込み、木美子は俄然はりきるのであった。

 しかし、まあ、病院通いとはちがい、女が美容院へ行くのはべつにいやなことでもない。それに、ここ当分、葬式はなさそうだったから、その日、Tホテルでの初対面を控えて、木美子は久しぶりに嬉々としてアフロ・ヘアにしてもらった。

 無理を重ねて傷みきった髪の毛は完全なアフロとはならず、どことなくしょぼくれた雀の巣のようなちぢれ頭に仕上がったが、木美子としては贅沢は言っていられなかった。

 勇んで、Tホテルのスナックへと向かったまではよかったのに、ここでたちまち、木美子は失敗をやらかした。

小泉喜美子「木美子の冒険」『ミステリー作家は二度死ぬ』p.11 より)

 そしてその失敗は後でやらかすもうひとつの失敗に比べると大したことではなく、その後の失敗のせいで木美子はとっても不思議な夜を過ごすはめになるのです……。

 という、そういう感じの短編が 10。

 おすすめです!

 「日曜日の天国」は元ボクシングチャンピオンの主人公が、はっと気付くとすべて失い、失ってからさらに何年も経ち、今日は久しぶりに息子に会える日だとはりきるところから始まります。自分にしては今日はお金に余裕のある日だし、離婚して一緒に暮らせなくなった息子に思い切り甘えさせてやるんだと想像をたくましくし、バスから笑顔で駆け下りてくる息子を期待しながら、待ち合わせ場所に急ぎます。

 少し息をはずませながら、彼はバスの停留所までやってくると、その辺を見わたした。息子の姿は見えなかった。バスを待っている人々の一人一人を彼は丹念に眼で追った。ゴム風船の糸を握りしめた小さな男の子が母親らしい女に手を引かれていた。もちろん、あれではない。あれでは小さすぎる。

 しかし、彼には、息子があれ(原文は傍点)でもいいような気もした。

(同 p.293 より)

  「あれでもいいような気もした」……!

 と、そんなこんなしているうちに特に会いたくもなかった昔の知り合いに声をかけられ、すっかり当初の調子を崩したところに「パパですか——?」と思いがけない声が耳をかすめます。

 すぐ脇で声がしたように思ったので、彼は振り返った。眼鏡をかけた、色の白い、小柄な少年がそこに立っていた。高校生の制服をきっちりと着込み、髪の毛は清潔にととのえられている。レンズの奥から、少年はさぐるように彼を見上げた。一瞬、彼はたじろぎ、何回かあわただしくまばたきして、少年をみつめた。

(同 p.299 より)

 そして、予想とは無関係な方向に彼と息子の日曜日は展開してしまうのです。 それがひやひやしたりはらはらするものでもなければ、「あわれ」とか「ああ」といった嘆息が出るものでもなく、なんといったらいいのか……。

 「船路の果てに」という女二人旅の短編では、船に揺られながら主人公が相手に対して殺意を抱いているのです。抱いているだけなのですけれども、抱いてはいる。

 が、ほのぼのと明けて行く水平線とその上の淡い紅色の雲を見たとたん、その想いすらも彼女は忘れた。大自然に心打たれたとか、人間のちっぽけなあがきがわれながらおかしくなったとかいうのとは少しちがっていた。しいて言えば、一望の空と水しかない空間におかれた者だけの感じるであろう一種のむなしさ、頼りなさのせいであったかもしれない。

(同 p.228 より)

  予想や期待や意志、または責任といったものとは無関係に、ぼんやりと推移していってしまう経緯の中で、ふんわりと流されていき、流されながら考えている彼女や彼や私たち。

 主体とか客体とか、能動とか受け身とか、そういったくっきりぱっきりしたことだけでは済まない、事情や経緯のなかにぽつんと置かれてしまう私たちの毎日が描かれていると感じます。でも、(戦争や殺人といった犯罪が出てくるにはもかかわらず)なにもかも奪われているわけではない、暴力とはほんのすこし距離を置けている世界です。

 突然ですが、この本、表紙をめくるといきなりこういうことになっています。

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 これがまた、意外や意外、全編にわたってひびいている、この、ふざけた献辞。献辞大賞。007のとんちきな映画と、沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」的なものを背景にしておきながら、気障もハードボイルドもないこの短編集。

 おすすめです!