プール雨

幽霊について

電車でそばにいた人が私の読んでいた本のタイトルにびっくりした 2023

 丸山正樹『夫よ、死んでくれないか』を読みました。

 出かける直前に読んでいたらクライマックスに突入してしまい、気になるので電車で続きを読みました。一応、カバーは外して、中身だけもって。カバーを外すとダークグレーのシックな装丁で、これなら目立たずに済むのではと期待しました。しかし、読み終えたあとで、「そういやさっき、斜め前の人がちらちらこっち見てたけど、この本の背表紙を見てたんだな。『夫よ、死んでくれないか』っていうタイトルを」を思い当たりました。

 デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった』、オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』など、タイトルの文言自体が衝撃的で、そこだけで話題になってしまったり、誰かを傷つけたりするような本に、この小説も入るのでしょうか。

 一面ではそうかもしれません。

 でも、こういうタイトルの小説が出てくるような社会に私たちが生きているのは事実で、実際、このタイトル自体が大きく取り沙汰されることもなく書店で静かに表紙を見せている現状を考えると、今の現実と釣り合いが取れているタイトルだということもいえそうです。

 主人公は同じ大学、同じサークルを卒業した麻矢、璃子、友里香の三人で、それぞれ大手デベロッパーの正社員、フリーのライター・編集者、専業主婦と違う立場ながら、三人でなら何でもできる! と励まし合ってやってきました。

 この三人が、一人ひとりではなく、三人であるがゆえに、歯止めが利かなくなり暴走してしまう展開がリアルで、三人の関係が絡まってはじけ飛んでしまいそうになる場面では夏目漱石の『それから』を思い出しました。学生時代の特別な友情が徹底的にダメになってしまう話として。

 友里香も麻矢も結婚相手とうまく行っていません。彼女たちの話を聞いていると、とてもリアルで、その分、「よくある話」です。

 でも、その「よくある話」のなかで、ふつうに殺意は芽生えるという、この社会の「普通」の歪み方がこわいと思いました。

 津村記久子の小説に「まともな家の子供はいない」というタイトルがありますが、実際、「何も問題のない家はない」といった言い方はそれこそ日常的に耳にすることです。

 「普通」に、殺意が生じる瞬間がよくある、特に家族間では、というのがこわいです。

 結局、人を人とも思わない振る舞いの積み重ねが暴力を呼び込むことになるんですけど、家族関係の型が支配関係になってしまっている人が多くて、仲のよい二人組も一度家族になると、どちらかがどちらかに支配されることになってしまう。そのときにこわいのは人より「型」を重視してしまう思い込みや偏見で、ほかの家がどうだろうと、私たちは話し合いをする、話し合いで解決していくという共通理解をつくっておかないと、それは容易に起こる、ということなのだと思います。

 二者の間で支配関係が生じているとき、力関係があるとき、それがいくら傍目にはうまく行っているように見えても、暴力を呼び込むことになる。「それはイヤだからやめてくれ」とか「無理だよ、できない」といったぎりぎりの意向すら話せないとき、または、どちらかがそこにいないかのように扱われたとき、そしてそれら小さな無視が積み重なったとき、殺意の種は生じるのだと思います。何を言っても無駄で、そしてそこから出られないという状況下で、人は「死んでくれないか」という言葉にたどりつき、それを繰り返しているうちに行動につながることもある。

 無視や、相手を軽んじているというメッセージを発し続けることがどんな隘路に人間を追い込むか。

 そしてその隘路がどれほどありふれているか。

 この小説は基本的にはミステリと言っていいと思うのですが、マープルやポアロのような名探偵は出てきません。葉村晶もいない、ロバート・マッコールもいない、不公正な世界で登場人物たちは誤った推論を重ねます。それがリアルで、こわかった。

 ミステリとして大きな傷があって、成功している小説だとは思えませんが、日常の中で、悪意なく暮らしているつもりでいつのまにか育てている暴力の怖さと、その暴力がこれまでもこれからもこの社会では溢れ続けるだろうという実感は味わえます。

 読みながらいくつか先行する映画や小説を思い出しました。上の映画はそのひとつです。読んでいて、「ああなったらイヤだなあ」と連想すると、ああはならない。でも……という、いやなこわさがありました。

📚 おわり 📚