プール雨

幽霊について

クリスマスなので、信仰について考えました

 そもそも、「対立候補を中傷するビラをまいて選挙に協力した土地ブローカーが 500 万円の支払いを要求したところ 300 万円しか払ってもらえなかったので、暴力団と協力して恐喝したという事件」が明らかになっている人が首相になれたということが今となっては信じられない。この、そもそもの発端だった下関市長選での対立候補への中傷、暴力団関係者への選挙協力依頼と 300 万円の支払いの違法性については不問に付されている。この人物に対する対応はずっとこれで、どれほど法律に違反し、倫理をそこねてもまわりから許され、また、まわりの違法行為を許し、野党からの対話には応じず、結局暴力を呼び込んできた。

 そんな状況の中で言われ続ける「野党もだらしないから」という定型句の意味について考えてみる。

 野党が「だらしない」とは、そうした与党側の違法行為を十分問題として共有するところまでもっていけず、結果として与党の専横を許し、民主主義の破壊に寄与してしまった点を言うのだろう。

 しかし、そうした事態を招いているのは野党ではない。問題を起こすのは与党だし、その問題について対話に応じないのも与党だ。与党にいると超法規的な権力をもつことになるらしく、かれらは法律の解釈を変え、公文書の改竄・破棄を易々と行って処罰されることがない。そんなかれらの出す立法事実のあやしい法案群は提出したが最後、議席数に応じて可決される。野党の議席が少ないのをいいことに、やりたい放題だ。仮に与党議員の言い草に応じて、議席数のみが問題だとするなら、野党議員の議席数が少ないのは有権者の投票行動によるのであって、「野党もだらしないから」は現状、事実としては「有権者がだらしないから」ということになる。どう「だらしない」か。選挙時に対立候補に中傷デマビラをまき、メディアに出まくってでたらめをいい、選挙後は公共部門をばっさばっさ削減して私有化し、私有化することで支配を強め、貧困や差別の問題はないことにする。有権者はそういう政権がこれからも続くのはしょうがないことだと受け入れているのと同時に、自分以外の有権者の大部分はどうせこれからも投票に行かないか、行ったとしても自民党や維新に投票するだろうと考えている。それが「だらしない」の意味内容だろう。

 「野党もだらしない」の実質的な意味は「有権者たる自分は無力だし、有権者たる隣人たちの投票行動も信用できない」ということだ。

 みんな、「自分を含めたふつうの日本人」を信用していない。どうせ自分はなんにもできっこないという諦めと、「世間」や「みんな」の動向を見てからでないと何も決められないという恐れの間で、軸のない駒のようにがくがくと振り回されているだけの空虚が広がる。

 「ふつうの日本人」はいじめがあれば「いじめられる方にも問題がある」と言い、痴漢被害があれば「痴漢に遭うような方に問題がある」と言い、パワハラやセクハラは「昔の人は我慢してきたこと」と言う。自民党議員がどれだけ憲法違反を重ね、裏金が問題化してもなおパーティーや飲み会を続け、国家公務員法に違反し、公職選挙法に違反し、法律違反が発覚すれば「法律に問題がある」と発言し、立法事実のない法案を押し通しても、それらを問題化すると「野党がここぞとばかり」「マスコミが悪い」とくる。どれほど自分の首を絞められ、背中に銃を押しつけても相手を許すのが優しさであり文化であると言う。だが、犯罪被害者にはその優しさは向けられない。被災者にも障碍者にも冷たい。被害者/被災者/障碍者が女性や外国人など何らかのマイノリティであった場合にはなおさら。

 「ふつうの日本人」は身分秩序が信仰の対象で、身分を尊敬し、高い身分にある人はそれだけで慕われる。「会えばいい人」と言われ、「そうだろうな」と納得される。身分が違えば、そんな反応は出ないはずだ。その身分秩序が神道という宗教の内実だ。そのトップには天皇がいる。この宗教はきわめて世俗的な価値と絡み合っていて、基本的には戦神だから、流してきた血の歴史もある。そこで身分秩序の保守を懸命に生きる人に向かって、「人権」と言っても通じない。かれらは主観的には真心と道徳から、その秩序の中で自分より上の相手に対しては偏に黙従し、自分より下の相手に対しては命令しなければならないと思い込んでいる。下の者が上の者に意見など言うことは秩序を乱すことになるので許されない。この秩序の中では暴言や暴行が横行する。

 日本に生まれて、その生まれと日本の国民であることとのあいだに隔たりがないような生を生きるとき、ぞろぞろと背中についてくる、この血筋と身分に構造化された信仰がまとわりついてくる。これをよいせっと「かっこ」にくくってどこかに押し込められれば苦労はないのだ。実際は法律や制度、そして家の中までその秩序がついてきて、生まれた瞬間だれもがその序列の中に押し込まれる。

 「日本人は宗教に寛容」? まさか! これほど土地の隅々、人生のあらゆる局面まで信仰の秩序で覆われているのに。

 息苦しい。