プール雨

幽霊について

「安心」についてはほっといてほしい

 「安心・安全」または「安全・安心」という言葉を聞く度に違和感をおぼえます。

 公共空間や制度の設計について「安全」を目指すのは基本中の基本で、それは誰もが期待し、主体的にも維持に努めようとすると思います。でも「安心」についてはどうでしょうか。

 安心とは、「気がかりなことがないか、なくなって心が安らかなこと」と多くの辞書で説明されていますが、それらからも確かめられるように、不安な状態ととなりあわせの、心の状態です。心の状態なので、何をもって安心というかは個人の問題で、一人一人違います。

 安倍晋三は野党の政治家とは目も合わせない人だそうですが、そうした強権的で異論に耳をかさない政治家の態度を見て安心感を覚える人もいるでしょうし、逆に不安でたまらなくなる人もいるでしょう。記者会見で記者を恫喝する麻生太郎の言動を見て安心感をおぼえる人もいれば、不安で目をそらしてしまう人もいる。

 どういう状態を「安心」と呼ぶかについて、各省庁で見解が述べられているのですが、そんなことに尽力しないでほしいです。それは個々人が感じ、自分で判断することです。そもそも「成員の全員が安心」という事態はありえないのだから、組織としてそこを目指すのは無理だと思います。

 昨日、立憲民主党の代表に小川淳也が立候補しましたが、そこでも「保守層からの安心感」という言葉が使われていました。「保守層」でどんな人たちをイメージしているのかも漠然としていれば「安心感」という言葉も漠然としています。立憲民主党に関しては選挙で無党派層からの投票先としてはトップでありながら、その「支持政党なしで、今回は立憲民主党に投票した」という人々から支持をを取り付けていないという問題点が指摘されています。

 「支持政党は決まっていないが、立憲民主党に投票した」という人々は「保守層」という言葉でまとめることができるような人々なのでしょうか。そしてその人たちは、一人の政治家がイメージする「安心感」という言葉に安心するような人たちなのでしょうか。そもそも、安心を政治に求めているのでしょうか。

 「みんな」で設計し、構築し、維持保守に努めるべきなのは公共の「安全」の方だけではないでしょうか。その社会で安心かどうかは個々の問題だし、私の「安心」は別に政治にめんどうみてもらわなくてもよいです。

 

🍁 おわり🌰