このところ何年も、選挙の日は「みんな」がこわくて眠れなくなってました。選挙結果を見て、「みんな」嘘をつかれても平気なんだ、「みんな」差別されても平気なんだ、「みんな」自分が差別に手を貸すことになっても平気なんだ、「みんな」搾取したりされたり暴力をふるったりふるわれるのが当たり前なんだ、それがこの社会の「常識」なんだと思うとこわかったです。
その度に「そんな『みんな』は実在しない」と自分に言い聞かせていたのですが、やはり人混みでは「このなかに、会ったこともない人の不幸を願う人がいる」とか、とっさに思ってしまってこわくなっていました。書店もこわくて入れない時期がありました。
でも、その自分の考え方が間違っているんだなと年単位で考えて納得できたので夕べは一応眠れました。友だちに相談したり、本を読んだりして人を頼って考えて、大きな穴から這い上がりました。
危ないところだった。
虎や虫だったらまだいいけど、穴の中に住む得体の知れない何かになるところでした。
そんな「みんな」は実在せず、実際には個々の現実があるだけなので、「みんな」がどうのとか考えるだけ無駄だし、それも差別の入り口なんですよね。また、自分の主たる間違いとしては「誰にとっても、事実にもとづいて論理的に考えることが一番快適なはずだ」と思いこんでいたことがあげられます。私は何より事実が、実際起こったことは動かしがたいことだと考えていて、そこから、またはそこに向かって考えるのが大事だし楽だと思います。そしてそこから、またはそこへ向かって、ひとつひとつ、極力論理的に飛躍しないように注意深く読み、かつ考えていって至った結論が、真実と呼べるもので、それが仮に自分にとっては不利益だったとしても、快適で開放的な地点となりうるはずだと思ってます。自分の考え方としてはこれからもそうです。これが一番楽しいし、楽。
でも、だれもがそういう考え方をするわけではない。
私はそういう考え方を言語の自然や本能のように思い込んでいました。言葉を使うということは論理的になるということで、それが一番言葉の生理にかなったことだと。
でも、言葉は現実より網の目が粗いので、ついていけない領域もあるんですよね。曰く言いがたい快・不快があって、言葉に先行するそれこそが自分だと考える人もいる。言葉で表すことを拒否する人もいるし、説明されることを暴力のように感じる人もいる。
共同のものですもん、言葉は。言葉を使う以上歴史がついてくるし、過去も未来もあり、他者もいる。その重みを私は愛せるけど、それこそがめんどくさいと思う人もいる。現実には、言葉にまとわりつく、そういう外の世界を拒否する人もいる。
「考え方は人それぞれ」だとは思っていましたが、その内実をなめていました。
「考え方が合わない」というときの「考え方」に対する知識がありませんでした。
そんなわけで以前は単に、事実に価値を置かず、嘘や違法なことを許すという行動を単に傍から見て「こわい」と恐れていたのですが、こわがることはないんだな、そういう人っているんだな、たくさんと腑に落ちました。最近。
だから記念すべき第 50 回衆議院議員選挙投開票日であった昨夜も、一応は寝て、今日は朝、それなりの時間に起きて、仕事して、一応納期が近いものがあったので、それをやりおおせました。
あ、そうだ。Twitter やなにかで、極右的な、排他的な発言をする人には即ブロックという過激な対応を取ってきたのは、上記の事情でこわかったからです。事実無根のことを書いて、いくら説明されても撤回しない人、何をするかわからない、こわい、と。今、元 Twitter は壊れちゃって、ブロックはミュートとほぼ一緒なので実態としては装備されてないわけなので、ブロックもへったくれもないのですが、どうでしょう、今後は、デマをまく人のことを……やっぱりブロックするでしょうねえ。文字の空間なのに嘘が平気というのはどこでどうなるかわからないですからね。でも、そういう人がたくさんいる社会なんだな、とただ認識している感じです。「言動を改めてくれ」とも、ましてや「いなくなってくれ」とも思わない。そういう人、いるんだな、いっぱい、とかみしめるだけです。
おわり。
🐙 おやすみ 🦑